どうも村田です
今日もちょっと長いのだ
ナチズムには
世界征服思想はないのだ
しかしながら、
共産主義思想と同じように
語っているということなのだ
おそらく、このナチズムを
批判する人は、ドイツから
たくさんいるのだ
それは、自由を拘束する
という意味では、それは
同じなのだ
経営にしても自由な経営を
認めないで国家の方針に
従った経営をしなさいという
意味では、嫌がる経営者も
当然たくさんいるのだ
少なくとも共産主義との
対比でいけば、国家社会主義
というのは、今の一般の
現代の人が考えているように、
特に第一次世界大戦後の
非常に不幸なドイツ国民の
状況を考えれば、そこから
脱却させるということで
成功したわけなのだ
だから、国家社会主義を何の
深い考察もなく悪である
というような評論家、あるいは
歴史家は、少し気を付けて
彼らの書くものを見ておいた
方がいいのではないかと
思うのだ
経営者や資本家の存在を
否定はしていないのだ
第二次世界大戦の始まりは、
ドイツのポーランド侵攻
だったがこれは
ここまでにする
次に我々にとって、馴染みの
深いというか、大事な
Hull note(ハル・ノート)
に行きたいと思うのだ
ハミルトン・フィッシュ
この人の本を読んだのだ
ハミルトン・フィッシュは
調べてみると実に立派な人
なのだ
この人は、アメリカは大統領が
宣戦布告をする権利がなく、
議会があるわけだ、さすがの
フランクリン・ルーズヴェルトも
パールハーバーが出てきて、
議会で演説して、それでその
宣戦布告を支持するという演説
をハミルトン・フィッシュは
自分がやったのだ
当時、下院の議員であったが、
「Hull note(ハル・ノート)
について知らなかった」と、
「Hull note(ハル・ノート)を
読んでいれば、私は反対しただろう」
と、こんなことを非常に素直に
述べていて、
「ああ、そうだったのだ」と
思ったのだ
たしかに、日本人から見れば
無法な要求であるが、アメリカの
人たちにもこれを全部秘密にして
こういうことをやっていたのかと
愕然としたのだが、ここら辺も
解明しなければいけない所なのだ
今のアメリカ人の中でも、
おそらく日米戦争を考える際に、
Hullnote(ハル・ノート)の
存在を知っている一般国民は
10%以下だと言われているのだ
だから、アメリカの知識人、
NHK辺りに出てくる白人がいるが、
彼に対し
「Hull note(ハル・ノート)を
本当に知っているのですか」と、
「あれほど重要な文書を国民に隠す
という行為は許されるのだろうか」
と、あの行為を国民に隠し続けて、
41年の12月8日、向こうの時間の
月曜日に、ルーズヴェルトは
ワシントン議会演説をするのだが、
そのときにも話をしていないのだ
「そういう外交という
のは正しいのですか」と、
「これからもそういうことが
あり得てもいいのですか」と
いう質問は、して当然だと
思うのだ
要するに
ハミルトン・フィッシュが言った
ことは、戦後いわゆる東京裁判で、
極東軍事法廷でインドのパル博士が
言ったことと、そこの部分は同じ
なのだ
歴史において、if(イフ)は
いくつも言わなければいけないと
思うのだが、そうではないと
歴史の教訓が学べないのだ
それこそ、当時
Hull note(ハル・ノート)を
日本がばらしていたら
どうなっていたのか、
アメリカ軍にこんなに
ひどいものをわれわれは
突き付けられているのだ、
われわれは戦争したくない
のだと
だけどこれをやったら我々も
相当の覚悟をせざるを得ない
ということなのだ
アメリカの当時の人たちは、
8割くらいと言われているが、
ヨーロッパの戦争には介入
したくないという人たちが
主だったのだ
その人たちに向けて、これは
外交のルールを破ることである
けれど、それは戦争するか
しないかだから、そんなのは
誰かがクビになることを覚悟で
やればいいのだ
そして、これをアメリカの
世論に訴えるという手は
なかったのかと思うのだ
もし、そういうことがあれば、
「何だ、わが政権はこんなに
ひどいことをやっていたのか」
と言って、
それこそフィッシュみたいな人
もいるわけだし、議会でも
大衆レベルでも、この
ルーズヴェルトが考えていた
謀略がうまくいかなかった
のではないかとすら思うのだ
歴史のif(イフ)を考えたら
いけないと、なぜ言われるのか、
そのことさえ俺は分からないのだ
これは、本当に人間の頭を
固定化してしまうのだ
例えば、我々とすれば、同じ
ような過ちを今後犯したくないし、
戦争はいかに避けられる可能性が
あったのかということを
過去の中に探っていくことは、
今後戦争の可能性を避けていく、
最大の教訓ではないかと思うのだ
歴史修正主義者と我々を呼ぶ
連中は、戦前の日本すべてを
正しかったのだというように
我々が主張しているかのような
イメージを作ろうとするのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる