どうも村田です
「ペリーの黒船」が来日
した時点で、日本が
「小国」であったと
いうのは間違いなのだ
明治維新で「開国」した
結果、大国になっていった
というのも、明らかに誤解
なのだ
何しろ、当時の日本の
「経済規模」は、欧米諸国
に匹敵するほどに大きかったのだ
経済規模を何で比較するべきか
と言えば、もちろんGDP
(国内総生産)なのだ
江戸期の時点で、日本経済は、
欧米を凌駕するほどに
巨大だったのだ
無論、江戸幕府や諸藩の
努力の結果であるのだ
1700年頃、つまりは
産業革命前だが、実は
日本のGDPはイギリス
よりも大きかったのだ
フランスには負けていたが、
それでもわずかな差でしか
ないのだ
日本のGDPは、イギリス
のみならず、ドイツをも
凌駕していたのだ
統計を製作した
アンガス・マディスン氏は、
ロシア単体の統計を出して
いないため、カザフスタン、
ウクライナなどをも含む
ソ連圏になっているが、
広大なソ連圏と日本の
GDPが匹敵していたのだ
オランダに至っては、
日本の四分の一程度の
経済規模に過ぎないのだ
さらには、ペリーが来航する
わずか30年前の1820年
時点でも、日本のGDPは
アメリカよりもはるかに
大きかったのだ
さすがに、産業革命を経た
1820年時点のイギリス、
フランス、ドイツには追い
抜かれることになったが、
現在の「大国アメリカ」の
印象からしてみれば、
「日本のGDPがアメリカより
もはるかに大きかった」
と言われても、なかなか
納得しがたいが
とはいえ、事実なのだ
ともあれ、その場合は
日本よりも人口が少なく、
経済規模も小さいアメリカに
言われるままに、なぜ
江戸幕府は開国あるいは
「開港」せざるを得なかった
のかという疑問が生じるのだ
当時の日本と、欧米諸国を
分かつ「違い」は何だった
のだろうか
実のところ、日本と欧米との
違いは、二つしかなかった
と言っても過言ではないのだ
すなわち、兵器と技術なのだ
ここで言う技術とは、生産
活動のための技術なのだ
より具体的に書くと、
軍事革命と産業革命なのだ
江戸期の日本が小国に
「感じられ」、実際に欧米に
強制されるように開国、開港に
踏み切らざるを得なかったのは、
我が国が軍事革命も産業革命も
経験していなかったためなのだ
新兵器の開発により、軍隊が
大規模化し始めた軍事革命以降、
欧州諸国はとにかく戦争に
明け暮れたのだ
特に、1519年に
ハプスブルク系のカール五世が
神聖ローマ帝国の皇帝の座に
ついて以降、スペイン・
オーストリアのハプスブルクは、
短い休戦期を挟みつつ、何と
140年間も戦い続けたのだ
主だった戦争をあげると、
繰り返されるイタリア戦争、
シュマルカルデン戦争、
ネーデルラント(オランダ)
独立戦争、英西戦争、
フランス・スペイン戦争、
三十年戦争
三十年戦争では、ドイツを
舞台にオーストリア、
デンマーク、オランダ、
スウェーデン、スペイン、
そしてフランスが入り乱れ、
死闘を繰り広げたのだ
兵士はもちろん、多くの
民間人が虐殺され、家屋が
破壊され、農地は荒廃し、
家畜も殺され、
ドイツ(神聖ローマ帝国)に
暮らす人々の生活基盤が
根こそぎ奪われてしまったのだ
さらには北方戦争、大洪水時代
当時、欧州随一の広大な領土を
誇っていたポーランド共和国が、
滅亡寸前にまで追い込まれたのだ
英蘭戦争。大同盟戦争。大北方戦争。
露土戦争。オーストリア継承戦争。
アメリカ独立戦争。七年戦争。
そして、フランス革命と
ナポレオン戦争。
とにかく、ひたすら欧州人同士
で殺し合ったというのが、
日本が「太平の世」を謳歌
していた時代のヨーロッパなのだ
フランス革命とナポレオン戦争
だけで、500万人の死者を
出したと考えられているのだ
これほどまでに戦争を繰り返せば、
兵器の技術力、つまりは
「効率的な殺戮の方法」が進化
して当たり前なのだ
戦争に明け暮れる欧州諸国に対し、
日本は大坂夏の陣
(1615年)以降、
200年以上もの間、大きな
戦争を経験したことがなかったのだ
当然ながら、日本の
「ヒトを殺す技術力」は停滞し、
欧米諸国に対し大きく後塵を
拝していたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる