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誤解なんじゃ

どうも村田です

航海術という「技術」

について、日本は江戸

後期には欧州に追いつき

つつあったのだ

問題は、蒸気機関というGPT

(General Purpose Technology、

 汎用目的技術)

(様々な用途に応用し得る

基幹的な技術)

がなかったことなのだ

石炭産出国でありながら、

蒸気機関の導入が遅れたため、

日本は江戸末期に黒船来航という

「危機」を迎えることになるのだ

黒船と言えば、1853年に

アメリカのペリー提督率いる

二隻の蒸気船、二隻の帆船で

構成された黒船艦隊が浦賀に来航し、

江戸幕府は突如の危機勃発に

「パニック」に陥った

という誤解をしている

日本人が少なくないのだ

例の狂歌

「泰平の眠りを覚ます上喜撰

たつた四杯で夜も眠れず」

が原因だと思うのだが、

ペリー艦隊襲来以前から、

欧米諸国の捕鯨船が幾度となく

日本を訪れており

そのたびに江戸幕府はドタバタ

と対応に追われていたのだ

黒船来航は、当時の欧米諸国

からの執拗

「開国(正しくは開港だろうが)」

要求の延長線上にあるのだ

さらにもう一つ、誤解を

解いておくと、黒船とは

「蒸気船」という意味

ではないのだ

ペリー艦隊にしても、

二隻は普通の帆船だったのだ

ペリー艦隊が日本を訪れた

初めての「黒船」という

わけではないのだ

黒船とは「外国船」

という意味なのだ

江戸時代の後期は、日本

周辺に欧米諸国の捕鯨船が

押し寄せ、日本に漂着する

外国人が増えていたのだ

なぜ、捕鯨船が日本周辺の

海域まで訪れたのかと言えば、

もちろんクジラが必要だった

ためなのだ

厳密には、クジラの油(鯨油)

に対する需要が拡大していた

のだ

イギリスに遅れて産業革命

を成し遂げたアメリカの

企業家は、工場の生産性を

高めるために「夜の操業」

を思いついたのだ

夜中であっても工場を操業

するために、明かりの燃料

となる鯨油が大量に必要

だったのだ

無論、欧州側も鯨油のランプ

で深夜操業をするようになり、

クジラに対する需要が激増

したのだ

鯨油には、蝋燭の原料、

機械用潤滑油、皮革用洗剤、

マーガリン原料など多様な

用途もあり、欧米の船乗り

たちはクジラを追い求め、

漁場を転々としていったのだ

南太平洋で始まった太平洋に

おける捕鯨活動は、クジラの

減少にともない漁場が北へ

移っていくのだ

そして、1810年代、

日本列島近海でマッコウ

クジラが獲れることが判明

日本近海の

「ジャパングラウンド」

(北海道(蝦夷地)・

小笠原諸島・ハワイ諸島を

結んだ三角形の海域)に

多くの捕鯨船が集まり

始めたのだ

イナゴのようにクジラの

漁場を次々に獲りつくして

いく欧米の捕鯨船が、良好な

漁場を求め、カムチャッカ半島

やオホーツク海までやってくる

ようになったのだ

当時の捕鯨船は船上で

鯨油の抽出を行っていたのだ

そのため、大量の薪や水が

必要であり、さらに長期航海用

の食料も含め、太平洋での

補給拠点が必要となったのだ

当然の結果として、欧米

捕鯨船が日本に接近し、

船員が上陸、あるいは

「遭難」する事件が多発

鎖国政策で、グローバリズム

から抜け出すことに成功

していた徳川幕府の危機意識は

大いに刺激されることになるのだ

日本の近代は、欧州人たちの

「欲望」に基づく経済に

振り回された歴史なのだ

特に、難破した捕鯨船から

船員が逃げ出し、日本に

流れ着くケースが続出したのだ

難破船の「母国」の政府は、

我が国に船員の返還を求める

わけだが、当時の日本には

その種の「制度」がなかったのだ

結果、江戸幕府は対症療法的に、

難破した船員の返還を求める

「新たな黒船」と交渉し、

大混乱を繰り返していたのだ

というわけで、当時の欧米

諸国の捕鯨「ビジネス」の

延長線上に、ペリー艦隊の

来訪があったのだ

そもそも、江戸幕府は

ペリーの艦隊が日本を

訪れることについて、オランダ

から情報を得ていたのだ

無論、実際にペリー艦隊が

浦賀に来航すると、江戸幕府

は対応に苦慮することに

なるわけだが、

「泰平の眠りを覚ます上喜撰

たつた四杯で夜も眠れず」

は、さすがに大げさに過ぎる

のだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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