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やつらからしたらそうなんじゃ

どうも村田です

ジョージ・オーウェルは

スターリン主義のような

全体主義を支持する気は

全くなかったのだ

で、1936年に結婚し

そのほぼ同じ週にスペイン

内戦が勃発したのだ

妻と私はどちらもスペインに

出かけて、スペイン政府の

ために戦いたかったと言うのだ。

なかなか大したものなのだ

というのは、スペイン政府、

共和党の政府、それに対して

フランコという、ファシズム

にも共鳴してる独裁者が、

軍の指導者がクーデターを

起こし、そして、共和国政府

をつぶそうとしたわけだが

フランコにはフランコの

言い分があって、このままだと

共和国政府は新ソ連なので、

ソ連社会主義にスペインという

国は乗っ取られてしまう、もう

スペインの伝統も文化もだめに

なってしまう、

これはどうにかして防がなきゃ

いけないというんで

フランコは決起したわけなのだ。

フランコ側にはフランコ側の

理由があるのだ

フランコはそのあと、長い

こと独裁政権を維持するが、

フランコの偉いところは

第二次世界大戦に参加

しなかったことだ

本当は、イタリアの

ファシズム運動なんかに

近い考え方の人だったから、

日独伊三国同盟と

一緒に戦争すると、

イタリア、ドイツと一緒に

戦争するかと、

しなかったのだ

そして、第二次大戦中は、

フランコはスペインを

ずっと政治的中立の立場で

維持したのだ。

だから、スペインは、内乱は

早く起きたが、内乱を治めた

あとは第二次大戦のあの

悲惨な戦争に巻き込まれ

ないで済んだのだ

これはスペイン人の命を

多く助けたと思うのだ

そして、フランコはその後、

長いこと存命して、無事に

ベッドの上で死ぬのだが、

そのあとに民主化運動が

起きて今日のスペインの

形になっているのだ

フランコは、ちなみに死ぬ

前に王政復古をしてるのだ

これも非常に渋い一手だった

と思うのだ。これによって

フランコが死んだあと、

右派のクーデター的な

ことが起こるのだが、逆に

王様がこのクーデターを抑えて、

右派、クーデターは失敗を

するのだ

きちんと最後までスペイン

という国の、バランスを

考えていた政治指導者だと

思うのだ、

フランコも再評価していい

と思うのだ

しかし、それは別の話で、

彼は政府を助けて、スペイン

のために戦いたかったので、

スペインではアラゴン戦線で

6カ月近く過ごしたけれど、

ウエスカでファシスト側の

狙撃手が私ののどを撃ち抜いたと

彼はスペインの体験を

『カタロニア讃歌』という

かたちで、彼のスペイン内戦

への参戦記、

記録を記しているけれど、

このときに彼はソ連側

が組織した国際旅団ではなく

スペインのトロツキストたち

の派閥、そちらの派閥で内戦に

行くわけなのだ

要するにスターリンと

トロツキーが対立してて、

国外に追い出された

トロツキー派、のほうで

戦争に参加するから、

共和国政府は主にソ連が支援し、

ソ連の武器も来る、トロツキー派

の旅団というか、

外国の義勇兵のほうには、

兵器も来ないし、ファシスト側と

ソ連側、ソ連の支援を受けてる側、

両方からたたかれるわけなのだ

そして、このトロツキー派

にはトロツキー派だけではなく、

かなりの数のアナーキスト、

アナーキズムを信奉してる

ような人たちもいたという

わけなのだ

アナーキストの一面から言うと

イコールテロリストみたいに

思われてる側面があるが

そうではなくアナーキズム

というのは強制的な社会制度、

いわゆる軍隊とか警察を

なくして人々が自治を行う

ことによって

国家というものを廃止しても

横並びの平和な世の中を作れる

んだと、作っていこうという

考え方で、

元来は別に悪い考え方ではない、

非常にユートピア的な考え方

ではあるけれど、

そういう思考の人たちも、

反国家権力的な人たちも、

アナーキスト的な人たちも、

あるいはアナーキストも

こちら側にいたということで、

ソ連側と、それから、

ファシスト側と、

フランコ側と、両方から

いじめられるので、

ほうほうの体で帰ってくる

というのが、

彼のこの『カタロニア讃歌』

の体験なのだ。

で、アラゴン戦線と言ってるが、

カタロニアとは今の

バルセロナがあるあたり、

あそこら辺は言語もカタラン語

といって本来のスペイン語では

ないわけなのだ

で、そこのカタロニアで戦った

彼の、自分の参戦記録がこの

『カタロニア讃歌』なのだ

で、1937年半ば、共産主義者

たちがスペイン政府を掌握し、

少なくとも部分的には、

トロツキスト狩りを開始した

ときには妻と私、2人とも

被害者側になっていたと。

一度も逮捕されず、生きて

スペインを出られたのは

本当に運がよかった

友人たちの多くは射殺され、

そうでない人々は長い懲役を

受けたり、あっさり姿を

消したりした。

殺されたということなのだ

スペインでのこうした

人間狩りはソ連での再粛清と

ほぼ併行して行われており、

いわばそれを補うものと

なっていた

要するに彼らからすると、

敵対陣営も問題だが、ソ連

からすると、

スターリン主義者からすると、

同じ社会主義とか言って

いながら、同じ左翼と言って

いながら、反スターリンの

やつらこそもっと近親憎悪で

憎らしいわけなのだ

だから、資本主義の国、

イギリスやアメリカと

ソ連は手を握っても、

同じ社会主義を言って異議を

唱えているトロツキスト、

トロツキーの子分とか、

それから、もっと数は少ないが、

左翼的な反スターリン主義者、

中にはアナーキストもいるだろう、

そういう連中が一番彼らから

すると敵であるということに

なるわけなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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