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自伝なんじゃ

どうも村田です

ウクライナ語版は

2000部を頒布した

ところで、

残部1500部すべてを

米軍が押収、何とソ連に

引き渡したというのだ

渡したというので、

うわさ話でどこまで本当か

確かめられないが、本国

イギリス版、米国版を含め、

本書は大きな評判になった

のだ

要するに、これは占領下

ドイツにあったウクライナ

難民キャンプで配ったけれど、

2000部を頒布したところで

残部1500部があったが、

これをやってるとソ連と

トラブルを起こすというので、

残部1500部を米軍が押収したと、

そういうことなのだろう

因縁つきのウクライナで

出なかったウクライナ語版

ということだが、

この中で彼が自伝的なことを

書いているので、そこを

ちょっと見ながら

ジョージ・オーウェル

という人について語って

みたいと思うのだ

『動物農場』ウクライナ語版

の序文を参考にしながら

ジョージ・オーウェルの

自伝的なことについて

書いてみたいと思うのだ

これは非常に短いけど、

自伝といえば自伝なのだ

ウクライナの人たちは自分の

ことなんかよく知らない

だろうからということで

自己紹介を書いたわけなのだ

ウクライナ語版への序文で

オーウェルは私は1903年に

インドで生まれた。

父はイギリス統治部門の役人

で、うちの一家は兵士、司教、

キリスト教の司教さん、

役人、教師、弁護士、医師

などで構成される、そこらの

普通の中産階級一家だと

言ってるのだ

お父さん、実はこれは厳密に

言うと、インドにいるイギリス

の植民地官僚だったのだが、

アヘンの栽培の管理者だった

のだ

アヘンの栽培の管理者で、

そこまで言うといろいろ語弊が

あるといけないというんで、

彼はそのことは書かなかった

んだと思うのだ

けれど、アヘンというのは

もちろん医療用として麻酔用に、

外科手術には欠かすことが

できないものであるし、

それから、当時で言うと、

インドとかイランあたりで

作ったものをシナに持ってって

売るというのがアヘン戦争以来、

イギリスのビジネスでもあった

こういうことになるのだ

で、教育を受けたのは有名な

イートン校でこれはイギリスの

パブリックスクール中でも最も

高価でお高く留まったところ

なのだ。

私は奨学金があったから

そこにいけただけで、そうで

なければ父は私をこの手の学校

に通わせるだけの資力はなかった

と書いているのだ

面白いのは、イートンにいった

人は大体、オックスブリッジ、

オックスフォード大学とか、

ケンブリッジ大学いって、

エリートの道を歩むと、

ジョージ・オーウェルのように

比較的貧しい中産階級の人でも

奨学金、優秀であるということ

でもらっていけば、

そこからエリートの道が開ける

ということなのだが、

彼はその道を不思議なことに

というか、歩まなかったのだ

それは作家を目指していたと

いうこともあるのかもしれないが

彼はイートン校を出て、

ちなみに

ジョージ・オーウェルの本名は

エリック・アーサー・ブレア

というのだ

時にアーサーを略して

エリック・ブレアと称していた

ときもあるようだが、

ジョージ・オーウェルは

ペンネームということなのだ

この上の大学にいかないで、

イートン校終わって、学校を出て

まもなく、オーウェルの言葉

だが、そのときはまだ20歳にも

なっていなかったのだが

ビルマに出かけてインド帝国

警察に入ったのだ

インドの現地の植民地官僚

なのだ

お父さんと同じような道を

歩んだということだが、

これは武装警官であり、

スペインの治安警備隊や

フランスの警備隊にも似た

憲兵部隊のようなものなのだ。

ここに5年とどまったが性に

合わなかったし、帝国主義が

大嫌いになったのだ

良心的な人だったから

そうなのだろう

自由人だから、こういう

官僚的な警察とか、軍の

任務は合わないのだろう

といっても、当時のビルマでは

ナショナリズム運動はあまり

盛んではなかったし、

イギリス人とビルマ人との

関係もそんなに仲の悪いもの

ではなかったのだ

1927年に休暇でイギリスに

戻ると、私は辞職して作家に

なることにした。

当初は大して成功しなかった

1928年から29年にはパリ

で暮らし、短編や長編を

書いたけれど、誰も出版して

くれなかった

これらはその後、すべて

破棄した。

その後、数年はほとんど

その日暮らしで、何も

食べ物がなかったことも

何度かある。

著作での稼ぎで暮らせる

ようになったのは、

やっと1934年からのこと

だった。

要は31歳ぐらいからで

それまでは何カ月にもわたり、

貧民街の最悪の部分に暮らして、

街頭に出てこじきをしたり、

盗みを働いたりする貧困者や

犯罪者まがいに混じって

生活していたのだ

当時の私はそうした人々と

お金がないことで共感して

いたけれど、

のちにそうした生き様

そのものがそれ自体として

とても興味深く思えた。

私は何カ月にもわたり、

今回はもっと体系的に

イングランド北部の鉱夫

たちの状況を観察した。

1930年までは自分が全体

として社会主義者だとは

思っていなかった。

実はそのときまではっきり

定まった政治的な見方は

持っていなかった。

私が新社会主義になった

のは、計画社会に対する

何やら理論的な崇拝から

ではなく、

工場労働者の貧しい部分が

抑圧され、無視されている

のに我慢ならなかったからだ。

こういう正義感で貧しい人

たちへの同情、それが彼を

社会主義に対して非常に

シンパシーを持たせたと。

しかし、それはスターリン

主義のような全体主義という

考えを支持する気は全く

なかったということなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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