どうも村田です
「日本精神」で、自分の命を犠牲にして
台湾人を守った日本人が戦前の台湾
にはいて、尊敬と親しみを込めて
「神様」として祀られている日本人もいる
俺はこのことを知り、驚いたのだ
たとえば、台南市にある
「鎮安堂・飛虎将軍廟」には、
日本の戦闘機乗組員が神様として
祀られている
「飛虎」とは戦闘機のことで
飛虎将軍と呼ばれているのは
杉浦茂峰・海軍兵曹長のことだ
先の大戦中の昭和19(1944)年
10月12日、米機動部隊から発進した
グラマン機が台湾を総攻撃した
高雄市など台湾南部の航空隊が迎撃に
出動し、激しい空中戦が行われたが、
日本軍は劣勢だった
そんななか、被弾した1機の零戦が
集落を避けるように機首を上げて飛び
去った。それが杉浦兵曹長の零戦だ
杉浦兵曹長の遺体が畑で見つかった。
しばらくして、地元住民は杉浦兵曹長を
祀る祠を建て、毎日お参りを欠かさ
なかったのだ
やがて、「お詣りすると願いがかなう」
と評判になり、参詣客が絶えないよう
になり1993年には新しい廟が建てられ
ご神体が安置された
廟では今も毎日「君が代」が斉唱され、
夕方には「海ゆかば」が歌われている
ということなのだ
もう1人、台湾で「神様」になったのは、
警察官の森川清治郎巡査だ。
森川巡査は明治30(1897)年、
37歳で台湾に赴任し、今の嘉義県の
副瀬村という漁村に着任した
治安の維持に努めるだけでなく、
派出所の隣に寺子屋を建てて、
自ら勉強を教えるなど、村民の
教育と福祉に尽力した人格者だった
ある日、台湾総督府は漁業税という
新税を制定した。
これに対し、森川巡査は
「貧しい漁民たちにはとてもこの
新税は納めきれない」と、
税の減免を願い出た
当時の警察官にとっては税の徴収も
職務の一つであり、森川巡査は
日頃から漁民たちの苦しい暮らしぶり
を知っていたのだ
しかし、その願い出は拒否された
だけでなく、懲戒処分を受け、
森川巡査は身の潔白を晴らすべく
自決を遂げたのだ
村民たちは、自分たちを守ろうと
して自分の命を犠牲にした
森川巡査のことを慕い、
ずっと語り継いでいた
それから21年後の大正12
(1923)年、副瀬村周辺で
伝染病が大流行した
この時、 森川巡査の霊が村長の
夢枕に立ち、 対策を教えるという
不思議な出来事が起きて、その通り
にしたところ、伝染病は収まった
というのだ
村人たちは
「森川巡査が死後も自分たち
を守ってくれている」
と心から感謝し、神像を作り
「義愛公」の尊称を与えて、地元の
富安宮という廟に祀った
義愛公の神像は複数作られ、
各地に貸し出されるほどの
人気だそうだ
この2人は自分の命を犠牲にして
台湾人を守ろうとしたので、
「神様」として祀られるように
なったのだが、命を落とさないまでも
こうした日本人と台湾人の絆が
台湾の至る所で確かにあったのだ
だからこそ、台湾の人々は戦後も
親日的であり続けてくれたのだと
思うのだ
日本人として我々後進はこの
日本精神を胸に刻むべきだ
武士道的精神の涵養に努め
先人に胸を張れる日本人として
日々研鑽すべきなのだ
今日はこのくらいにしといたる