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進出していたんじゃ

どうも村田です

そもそも、グローバリズム

とは何なのか

モノ、ヒト、カネの国境を

越えた移動を善とする

テーゼだが、本格的に

始まったのは大航海時代なのだ

大航海時代とは、西欧史観が

過ぎる気がするのだ

正しくは、ヨーロッパ人

による新航路の発見と

呼ぶべきなのだ

なぜ、ヨーロッパ人が

インドやインドネシアの

香料諸島、

あるいはアメリカ大陸へ

の新航路を発見したのか

理由は、スパイスなのだ

貧困な食料文化の欧州において、

食事に色合いをもたらす

スパイスは必須だったのだ

ところが、オスマン帝国が

インド洋と地中海の間の

スパイス・ロードを閉ざして

しまったのだ

だから、レコンキスタを

成し遂げ、勢いがあった

イベリア半島の国々が

アフリカ回り、西回りの

「インドへの道」を開拓

したのだ

まずはスペイン、ポルトガルが

インドネシア、インド、

フィリピン、あるいは中国

のマカオに交易拠点を設けたのだ

その後は、オランダ、

イギリスが来訪し、歴史に

名高い(あるいは「悪名高い」)

東インド会社による交易が

始まるのだ

最終的に、イベリア諸国は

アジアの植民地を奪われ、

イギリスがインド、ミャンマー、

マレーシア、シンガポールを領有

オランダはもちろん

インドネシア

フランスがインドシナ

(ベトナム、ラオス、カンボジア)

を支配し、米西戦争に勝利した

アメリカがフィリピンを獲得

さらには、大清帝国に

様々な圧力をかけ、香港を

はじめとする様々な港を

「開港」させていくのだ

大清帝国側が渋ると、

アヘン戦争を引き起こしてまで

「自由貿易の拠点」を

作り上げていったのだ

1543年にポルトガル人が

種子島に来航し、日本もまた

西欧のグローバリズムに

ビルトインされたのだ

その上で、日本は他の

アジア諸国とは異なる道を

歩むことになるのだ

欧米諸国が交易拠点を

設けた国々に、日本人も

また続々と「植民」して

いったのだ

具体的には、インドネシア、

フィリピン、タイといった

国々に日本人が進出し

「日本人町」を作って

いったのだ

いわゆる、朱印船貿易の

時代になるのだ

例えば、フィリピンのルソン

には3000人もの日本人が

住む日本人町が作られたのだ

さらには、アユタヤ

アユタヤはタイだが、

山田長政で有名な日本人町が

建設されるのだ

アユタヤには1500人

以上の日本人が住んでいたのだ

それ以外にも、300人以上

が暮らす日本人町がいくつも

存在し、当時、外国に住む

日本人の総数は5000人

を超えたのだ

なぜ、日本人が東南アジアに

進出したのかと言えば、実は

欧米諸国と同じ理由によるのだ

各地に日本人町を作り、

交易をしていたのだ

特に、香料諸島が産出する

スパイスは、日本でも高値で

売れたのだ

スパイス以外にも生糸、

絹織物、綿製品、皮革、蘇木

鉛、錫、砂糖など、日本が

生産できない様々な製品が

輸入されたのだ

朱印船貿易は、江戸幕府に

よる1635年の

第三次鎖国令で終焉を迎えるのだ

江戸幕府が鎖国政策を採らず、

朱印船貿易が継続したら、

世界の歴史はどのように

変化したのだろうか

同じくアジアに「植民地」

を作ったとはいえ、欧州から

インドや東南アジアに来るのは、

これは大変な苦労を強いられるのだ

何しろ、アフリカの南を

回るか、もしくは大西洋と

太平洋を越えなければ

ならないのだ

アフリカ回りにしても、

太平洋回りにしても、

航行距離があまりにも長く、

当時の航海技術では大勢の

人間を運ぶことはできないのだ

それに対し、日本と東南アジア

の距離は近いのだ

交易が利益になる限り、

日本人は次々に東南アジアに

渡り、交易拠点を設け、

西へ西へと勢力圏を拡大

していっただろう

先述の通り、封建制の国は

「領域」は欲さないが、

交易拠点の保有は望むのだ

アジア各国から、日本市場で

売れる商品を買い付け、

持ち込むのだ

逆に、日本の産物を売り

込んでいくのだ

何しろ、当時の日本は

グローバリズムに完全に

ビルトインされていたのだ

日本の「交易圏」が西へ、

西へと動いていくと、やがては、

東に向けて拠点を築きつつ

あった「ある国」と必ず

ぶつかったはずなのだ

恐らくは1600年代、

関ヶ原の合戦から十年以内か、

遅くとも数十年以内に日本と

「ある国」との衝突は

避けられなかっただろう

場所は、恐らくはインドの

ベンガル湾辺りなのだ

ある国とは、もちろん

イギリスなのだ

日本の偉大な地政学者である

梅棹忠夫は

(本人は地政学者とは

名乗っていなかったが)

1950年代に

『文明の生態史観』という

優れた書籍を刊行しているが、

その中で

「仮に幕府が鎖国政策を

とっていなかったとすれば、

17世紀半ば頃には、おそらく

ベンガル湾あたりで極東から

東南アジアに進出する日本と、

ヨーロッパ諸国、とりわけ

東インド経営に乗りだして

いたイギリスとの間に

決戦が行われていただろう」

と、書いているのだ

いわば、幻のベンガル湾

海戦というわけなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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