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日本軍に感謝していたんじゃ

どうも村田です

毛沢東は蒋介石軍を駆逐した

日本軍に感謝していた

日本で初めてできた

インドネシア料理店で

2008年に閉店した

西新橋の

「インドネシア・ラヤ」

の創業者、

故中島慎三郎氏は

ASEANセンター代表

として日本とインドネシア

やASEAN諸国との

交流に尽力した人物

中島氏は1941年

12月に 「マレーのトラ」

といわれた山下泰文将軍

率いる山下兵団の兵隊

としてマレー半島に上陸、

シンガポール攻略戦に

参加した

当時、部隊には

インドネシア語の通訳が

不足していたため、

語学の才能に長けた

中島氏はインドネシア語を

習得、ジャワ派遣軍の通訳

として活躍した

戦後は私財を投じて日本と

ASEAN諸国との交流を

積極的に展開し、福田赳夫

政権時代は、首相の外交

補佐官のような役割を担い、

アジア外交を支えた

これまでのASEAN

諸国訪問は400回を超える

というASEAN問題の

専門家だ

その中島先生が

『月刊日本』(2000年12月号)

に寄稿した

「久原房之助と毛沢東」

という記事の中で

日鉱金属株式会社の社祖であり

「政界の怪物」と言われた

久原房之助と毛沢東の

会談内容に触れている

1953年、久原房之助は

85歳の高齢にもかかわらず、

日ソ国交回復同盟の会長職を

務めていた

ナショナリストではあったが、

米英の巨大な圧力に対抗する

ためには、イデオロギーの違い

を超えて中ソとの関係を

見直すべきとの立場をとり

廖承志

(後に華僑担当の閣僚となり、

インドネシアのクーデター、

9・30事件に参画)

の案内で北京に赴き、

毛沢東と会った

そのときに、次のような話が

交わされた

久原

「日支事変は、中共に益する

ところありと見ているが、

毛沢東さんはどう思われますか」

毛沢東

「第一、日本軍が蒋介石を

叩いてくれたから、中共軍は

助かりました。もし、日本軍が

蒋介石を叩いてくれなかったら、

我々中共軍は蒋介石軍に

完敗していました。

第二、中国の民衆は日本軍が

目の前にいるから、団結しました。

我が民族は、四千年間、

団結できなかったのです。

第三、中国は大国ですから、

党員を集めて会議をしても通訳

なくては通じませんでした。

例えば、山東省と広西省の代表は

話が通じませんでした

しかし、日本軍や蒋介石軍と

戦う為に、北京官話が普及しました。

日中戦争が無ければ、北京官話は

普及しませんでした」

毛沢東は哄笑しながら語ったが、

久原房之助は微笑を浮かべて

聞いていた。

(注・久原の幕僚田中龍夫氏と

中田英秀氏と岩畔豪雄氏の証言による)

今日からはかつての戦時での

中共と日本との関係について

書いていく

これも知るべきことだと

思ったからだ

俺の備忘録として書くので

よろしくお付き合い願いたい

今日はこのくらいにしといたる

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