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不平等じゃ

どうも村田です

江戸末期の日本は初めて

「開国」したわけではないのだ

グローバリズムに「再び」

組み込まれることになった

と繰り返しているが、

何よりの証拠が

「日米修好通商条約」なのだ

1853年にペリーの艦隊が

来訪し翌1854年に

日米和親条約が結ばれたが、

そもそもアメリカは日本に対し

何を要求していたのか

ペリー提督が持参した

フィルモア大統領の親書を

読めばわかるのだ

「(前略)私はまた、いま

一つの指令をペリーに託している。

多くの米国船舶がカリフォルニア

から中国に渡っているが、極めて

多くが貴国沿岸での捕鯨を求めており、

荒天により、貴国沿岸での座礁、

遭難にみまわれている。米国は

貴国に対し、これらの不慮の遭難者

を救護、治療し、米国からの船に

よって移送されるまで、彼等と

その船舶、所持品などの保護、保存を

ここに依頼し、これらを予期する

ものとしたい。

米国は貴国の豊かな石炭資源を

認識しており、ペリーは更に、

この旨を伝えるべく任務を

担っている。米国の蒸気船は

大洋航海に極めて多量の石炭や

食料を要し、

これらを米国から積載していく

ことは賢明でないと考えている。

そこで、日本でこれらの船舶を停泊し、

石炭、食料、水などの補給を認めて

頂く旨、お願いしたい。

これらについては料金、或いは

相当する貴国の希望する物品

として支払うものとし、貴国には、

日本の南部にこれらに適当な

港の指定を乞う。

米国はこれを強く要請したい。

以上、両国の友好、交易、燃料類の

補給と遭難者の救護のみが、米国が

貴国の著名な都市である江戸に向けて、

強力艦隊と共にペリーを送る

目的である。(後略)」

アメリカの目的

(というより「要求」)は二つなのだ

一つ目が、アメリカ人が難破して

日本に漂着してしまった際に、

母国に戻すプロセスを確定すること、

二つ目は、アメリカ船が寄港した

際に、石炭を売ること

このふたつなのだ

日米和親条約は、まさに上記の

二つを定めた協定であり、内容も

比較的穏やかだったのだ

とはいえ、4年後の1858年に

締結された日米修好通商条約の

場合は、そうはいかないのだ

同条約は、これは完璧に

「グローバリズム」であったのだ

日米修好通商条約は、自由貿易

原則に基づいていたのだ

外国から輸入する物品に関税を

課してはいけない。課す場合は、

事前に協議された比率までしか

認められない協定関税制。

日米修好通商条約を締結した

時点で、日本は関税自主権を

失ったのだ

何しろ、両国で協議し、予め

決められた比率までしか関税を

かけられないのだ

加えて、治外法権。厳密には、

片務的領事裁判権。

アメリカ人が日本で犯罪に

手を染めた際には、在日の

アメリカの領事が裁判をする

さらに、片務的最恵国待遇

日本が他の国とより相手方に

都合がいい条件の条約を結んだ

場合、自動的にアメリカとの

条約に適用されるのだ

ちなみに、片務的であるため

逆のケースは想定されていないのだ

間違いなく、

日米修好通商条約は

不平等条約であったのだ

意外に知られていないが、

日米修好通商条約とほぼ

同じ内容の条約を、その後の

日本はオランダ、イギリス、

ロシア、フランスと結んでいく

のだ

日米修好通商条約をアメリカ側で

主導したのは、アメリカ全権の

タウンゼント・ハリスであったのだ

日米和親条約は、元々の

フィルモア大統領の要望通り、

「日本に漂着した捕鯨船

乗組員の帰国プロセス」

「捕鯨船に対する石炭の供給」

がメインテーマだったのだが、

日米修好通商条約は、完全に

日本をグローバリズムに

再ビルトインすることが

主目的だったのだ

アメリカ全権のハリスは、何と

日本側に専売制度や倹約令の

撤廃まで要求してきたのだ

完全な、内政干渉なのだ

基本的に欧米のグローバリズム

は内政干渉の色が濃いが、

ハリスは今風に言えば

非関税障壁の撤廃も求めて

きたのだ

さすがに、内政干渉も甚だしい

アメリカの要求について、

江戸幕府は呑まなかったのだ

とはいえ、激しい交渉の末、

最終的には軍需品、米、麦などの

穀物、銅、重要製品以外については、

江戸幕府は基本的に規制しない

という線で決着したのだ

いわゆる、ネガティブ方式の

自由貿易であるのだ

もっとも、当初は日本の輸入

関税率はそれほど低くなかったのだ

具体的には、一般の財に対しては

20%。酒類35%

日本が外国製品を輸入する際は、

それなりに高い関税を課すことが

可能だったのだ

もちろん、自国の主権に基づき、

関税率を決められないことは

問題だが、20%の関税率は、

それほど低くはないのだ

欧州諸国同士の関税率とほぼ

同じであったため、不平等性が

極端に強かったわけではないのだ

もっとも、長州藩が下関砲台から

外国船を無差別砲撃した、

いわゆる下関事件が勃発し、

責任を求められた江戸幕府は、

関税率を5%に引き下げさせられたのだ

協定関税制である以上、関税率は

日本の勝手にはならないのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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