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内需中心なんじゃ

どうも村田です

明治維新は

ブルジョア革命である

と同時に、日本国の

「再」グローバル化で

もあったのだ

日本の真の開国は

ペリー来航ではなく、

1543年のポルトガル人

の種子島漂着であることを

解説したのだ

ポルトガル人漂着から、

欧州との交易をオランダ

との間に限った第五次鎖国令

(1639年)までの

およそ百年間、

日本は欧州が主導する

グローバリズムに

組み込まれていたのだ

江戸幕府の(いわゆる)

鎖国政策により、

日本は一度は

グローバリズムから

離脱することに成功するのだ

東南アジアの日本人町も、

次第に衰退していき、

最終的には消滅したのだ

一度は離脱に成功した

日本国が、

再度、グローバリズムに

組み込まれたのだ

これが、明治維新の

もう一つの姿なのだ

江戸初期に、日本が

グローバリズムから

離脱したことで

アジアは完全に欧州勢に

席巻されてしまうのだ

日本とタイを例外に、

アジアは欧州諸国に

「分割」されてしまったのだ

パキスタンからマレーシア、

シンガポールに至るまで、

すべてがイギリス領、

イギリスの勢力圏に

なってしまったのだ

インドに至っては、

ムガル帝国が滅ぼされ、

イギリス領インド帝国と化し、

ビクトリア女王が皇帝の

座に就いたのだ

インドネシア、特に香料諸島

そもそも、欧州人がスパイスを

求め、アジアに来訪したことが

グローバリズムの始まりだった

わけだが、香料諸島を含む

インドネシアはオランダ領

となったのだ

フィリピンは元々は

スペインの領土だったのだが、

米西戦争でアメリカが勝利し、

アメリカ領となるのだ

フランスがベトナム、ラオス、

カンボジアというインドシナを

フランス領と化のだ

中国、大清帝国は、次第に

イギリスの勢力圏、フランスの

勢力圏という形で分割されて

いったのだ

あるいはロシアの勢力圏に

組み込まれていくのだ

帝国北東部、元々は

清の発祥の地である

満州を含め、ロシア領に

なってしまったのだ

アジアが欧米諸国に

「分割」されていった時代、

日本はオランダ、中華帝国、

朝鮮以外との交易を禁じ、

いわゆる鎖国政策を採るのだ

海外との大規模な交易をしない

ということは、資源について

全て自国で賄わなければ

ならないことになるのだ

現代のように、中東から

原油を輸入するといった

ことはできないのだ

江戸期の日本経済は、

市場は国内、資源も国内、

労働力も国内、技術も国内

無論、資本も国内、多少は

オランダから新たな技術が

入ってきたものの、基本的には

国内で全てのリソースを調達し、

生産活動に投入したのだ

「日本は内需中心の国である」

と主張しているが、江戸時代は

現在以上に内需中心の経済を

実現していたのだ

内需中心とはいっても、

別に当時の日本経済が停滞

していたわけではないのだ

太平の幕藩体制は、国内の

資本を強化するのにうってつけ

の環境であったのだ

何しろ、苦労して蓄積した

資本を戦乱で破壊される可能性が、

ほぼないのだ

まずは、新田開発

江戸時代には、土地が拓かれ、

新たな田畑が開発されて

いったのだ

江戸時代は、もちろん貨幣も

流通していたが、基本的には

米本位制だったのだ

当時の所得は「石高」で

計られたのだ

前田家の加賀藩は百万石、

加賀百万石

石高とは、要は米の量なのだ

一石は、およそ米150㎏に

該当するのだ

米本位制であるため、

新田を開発して米の

生産量を増やせば、

豊かになれるのだ

水田は米という所得を

生み出すための基盤であるため、

まさに「資本」なのだ

特に、新田が開発されたのが、

現在の平野部になるのだ

江戸時代までは、水田は

中山間地域が中心で、平野部には

少なかったのだ

平野部は基本的には川が

通っており、その川が頻繁に

氾濫するため、暮らし

にくかったのだ

江戸時代、各藩は河川を堤防や

灌漑設備でコントロールし、

平野部に新田を次々に

開発していくのだ

結果的に、米の生産量は17世紀

初頭から末までの百年間で

1.5倍になったのだ

さらに、18世紀には

2倍に達したのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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