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先に手を出せと・・・

どうも村田です

連日終戦の日を迎えるにあたり

先の対戦について再度勉強し

備忘録に追記しているわけだが

今回は開戦までの当時の

米国大統領ルーズベルトについて

考えてみることにした

ルーズベルト

フランクリン・デラノ・ルーズベルト

が本名で親サラ・デラノの家系である

デラノ一族は、19世紀から

シナ貿易で財を成した

彼らはシナから苦クーリーと

呼ばれる労働者を沢山連れてきて

米国で大陸横断鉄道建設の労働者として

酷使した

奴隷同然の過酷な労働を行わせるため

阿片が売られていたと言われている

阿片とシナ労働者の

輸入に関わっていたのが

ウォーレン・デラノという

フランクリン・ルーズベルトの祖父だった

このデラノ家の財産を相続したため

フランクリン・ルーズベルトは

大変な大金持ちだった

彼の家にはシナの古い美術品が

沢山あったらしいがある意味

それは当然だったと言えるだろう

ルーズベルトのところには

三方(英国、ソ連、中華民国)

から米国に早く参戦してほしいと

矢の催促が来ていた

ルーズベルトは1940年(昭和 15年)の

大統領選挙で三選を果たす

それはルーズベルトがすでに

ヨーロッパで始まっていた戦争に

米国を介入させないと米国国民に

公約したことも一因だった

ルーズベルトは

「攻撃を受けない限りアメリカは絶対に参戦しない」

と何回も繰り返し言い

「アメリカのお母さんたちよ安心してくれ

あなたがたの息子をヨーロッパの戦争に

送ることは絶対あり得ない」 と言い

堂々と嘘をつき大統領選を勝ち抜いたのだ

実際彼の腹の中では参戦を固めていたわけだが

選挙では本音を隠し続けたのだ

なぜなら当時の米国では8割ぐらいの人は

ヨーロッパで始まった戦争に

米国が参戦するべきではないと思ってたからだ

第一次世界大戦のとき米国は途中から参戦したのだが

大変悲惨だったという経験があり今度の

ヨーロッパで始まった戦争に米国は巻き込まれないほうがいい

アメリカン・ボーイズがヨーロッパの戦争で

死ぬ理由はないのだという思いの民衆が

圧倒的多数を占めていた

厭戦気分が非常に強かったのだ

米国は、 1941年に英国など連合国への

武器貸与を認める武器貸与法を制定

英国、ソ連などに大量の軍事援助の

物資を出していた

実は米国はそれまで孤立主義と国益優先の立場から

中立法により交戦中の国への武器輸出を禁止していた

チャーチルからの要請を受けルーズベルトが

武器貸与法を制定させた

そこまではやってもいいが米国が自ら兵隊を

出して戦う必要はないというのが多くの

米国人の考えだった

ドイツが米国まで攻めてくる恐れがあるなら

話は別だろうがドイツ海軍が太平洋を越え

米国に攻めてくるなどあり得ないわけだ

米国で確信的な中立論を唱える人は

ドイツ系移民の人ばかりではない

米国中西部に広く住んでいる北欧系の人たちも

故国がドイツと地理的に近いので戦争をしたくない

という思いが強かったようだ

ちなみに、アメリカ中立論を主張した有名人には

大西洋単独無着陸横断飛行を成し遂げた

チャールズ・リンドバーグがいるが

彼は祖父がスエーデンからの移民だ

米国の第二次大戦への参戦を阻止する目的で

1940年に結成された組織である

メリカ第一委員会(America First Committee)に

リンドバーグは主要なスポークス マンとして加わり

各地で講演を行っている

国内の世論が孤立主義のため

ルーズベルトは簡単に戦争を

始めるわけにはいかない

そこで当初はドイツを挑発しようと

手を尽くすがヒトラーも頭がいいので

なかなか挑発に乗らない

ならば日独伊三国同盟を悪用しよう

逆用すればいいということで

何とか日本から先に一発目を打たせるように仕向け

それで米国が第二次大戦になだれ込めばいいという

計画を立てた

結果から言えばこれがものの

見事に成功してしまうのだ

ここまでが開戦までの話だ

真珠湾攻撃については以下のような資料がある

これは一応載せておくことにするが

いずれにせよルーズベルトの参戦への

理由と米国民の結束を呼んだのだ

しかし、ルーズベルトは知っており

わざと攻撃させたとの説もある

次回はフーヴァーとマッカーサーの

会談内容について書いていく

今日はこのくらいにしといたる

真珠湾攻撃資料

御前会議で対米戦が決定したあと、天皇陛下は

東條英機首相に開戦手続きをきちんと行なうように伝え

山本五十六連合艦隊司令長官も、対米最後通告が間違いなく

真珠湾攻撃前に届く手筈になっているかどうかを、

何度も確認していた。

現地時間で昭和16年(1941)12月6日の朝

東郷茂徳外務大臣からワシントンDCの

駐米日本大使館に宛てて「対米覚書を発信するので明日、

本国からの訓令十四部が届き次第、アメリカ政府に

いつでも手渡せるよう準備するように」と

命じるパイロット電報が届いた

ところが6日夜は、戦後に『昭和天皇独白録』を

書いたことでも知られる寺崎英成一等書記官の送別会があり

大使館員たちは出払っていた。翌朝7時に最後の十四部が届いたが、

大使館員は出勤しておらず、大使館に膨大な電報が届いているのを

見つけた海軍の実松譲駐在武官補佐官が大使館員に連絡したという。

日本大使館には、最後通告をワシントン時間の12月7日午後零時半

(日本時間の12月8日午前2時半、ハワイ時間の7日午前7時)に

アメリカ政府に渡すよう命令があったがそのあと30分繰り下げて

ワシントン時間の午後1時にアメリカ政府に渡すように指示された。

そこでハル長官に1時に会ってもらうことにしたが、

暗号解読とタイプが間に合わない。

そこで、なんと彼らは、とんでもない判断を下した。

ハル長官に電話をかけて、独断で「面会時間を延ばしてほしい」

と頼んだのだ。結局、野村吉三郎大使と来栖三郎特命全権大使が

最後通告をハル長官に手渡したのは1時間20分遅れの2時20分で、

真珠湾攻撃後すでに50分が経っていた。

これはアメリカにしてみれば、まさに最悪の状況で騙し討ちをされたことになる。

外交交渉の途中に攻撃されたことになったのだ。

だが、第二次大戦への参戦に消極的だったアメリカの世論が

大きく変わることを喜んだルーズベルト大統領は、

「私は議会に対し、一九四一年十二月七日、日曜日に

日本によって行なわれた不当かつ卑劣な攻撃以来、

合衆国と日本帝国は戦争状態にあることを宣言することを求める」

という演説を行なったのである。

参照元:テンミニッツTV

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