どうも村田です
連日書いているが終戦記念日を
迎えるにあたり英霊には感謝しか
ないのだが先の対戦について
当時の時代背景を教えない
知ろうとしない連中が
存在するので俺なりに
調べて書いているのだが
今日は英国とロシアとの
歴史についてだ
日本は日清戦争(1894~ 95年)に勝利し
日露戦争(1904~ 05 )が起こる
日露戦争というと日本とロシアの戦いに思われがちだが
当時日本は英国の代理人で東アジアにおける
英国の代理人としてロシアと戦ったというのが実情だ
当時結ばれた日英同盟がそういう性質の
軍事同盟だったのだ
日清戦争に勝利した日本が
下関条約でシナ(清朝)から遼東半島を
獲得したことに対しロシア・
フランス・ドイツの三国が干渉
その返還を迫ってきた
日本単独ではこれら3大国に
対抗することができず、悔し涙を呑む
このとき、日英同盟があれば
三国干渉の圧力に唯々諾々として
従うことは拒絶できた
というのが陸奥宗光ら
当時の外交エリートの想いだった
そこでシナと朝鮮半島における権益を
相互に認めアジアにおけるロシアの膨張に
備えることを共同の目的とし日英同盟が
締結されることになった
これで日本はロシア帝国と
ようやく相対峙する体制を
整えることができた
ロシアと英国は当時対決する運命にあった
アジアの覇権をめぐる大英帝国と
ロシア帝国のぶつかり合いは
グレート・ゲームと言われている
ロシアは大陸国家でユーラシア大陸を南と東へと
進んで自分たちの領地を拡大していた
北はバルト海方面、南は黒海・
バルカン半島方面に目標を置く一方
カフカス地方からイランに進出
中央アジアのトルキスタン地方から
アフガニスタンやインド方面まで
勢力を伸ばそうとしていた
ロシアは早い時期からユーラシア大陸の東
ウラル山脈を越えて東進し中央アジアから
インド洋を目指して南下していった
ロシアは東方面へは妨害がなく
シベリアを東進、ついに黒竜江方面に進出
ここでシナとぶつかる
両国は1689年に ルチンスク条約を結び
国境線を確定する
しかし、機会あれば南下してくるのが
ロシアでこれで留まるわけがない
英国は、アフリカ大陸の南端で
ケープタウンの植民地(後の南アフリカ)を
獲得するその後、フランスの外交官・実業家
であるフェルディナン・ド・レセップ に
スエズ運河を完成させると(その後イギリスが買収)
英国はここを押さえアジアに対し
本格的な帝国主義政策を取るようになる
インド植民地も直接支配の時代になる
英国は海洋国家としてアフリカの喜望峰を回り
中東、イン ドを制圧、マラッカ海峡を経て
マレーシアからシナ大陸にまで進出した
大陸国家ロシアが陸伝いに東へ東へ来る
大英帝国はユーラシア大陸の南の淵を通り
それらの地域を次々に植民地化していく
ふたつの大国がぶつかればどうなるか
初めての対決の場はアフガニスタンだ
ロシアがアフガニスタンに勢力を伸ばそうと
したことに対して英国はインド権益を防衛する目的で
アフガニスタンに進出しアフガン戦争が起こった
しかし、英露両国ともアフガニスタンを
完全征服することはできなかった
そして、英国とロシアふたつの帝国勢力が
本格的に衝突したのが19 世紀中ごろの
日本だったのだ
幕末にロシアは日本に盛んに使いを
寄こして開国を迫っている
英国は薩英戦争や馬関戦争(下関戦争)で
直接日本の内政に手を突っ込んできた
ふたつの帝国の勢力が日本の地で
交わるのにはそういう背景があったわけだ
この状況を冷静に分析していた越前藩の橋本左内は
藩医の家に生まれ尊皇の志士として活躍した
左内は当時の世界の大勢を見て
日本は英国と組んでロシアと戦うのか
ロシアと組んで英国と戦うのか決断せざるを得なくなる
そのときに必要なことは日本が近代的な
統一国家になっていることだ
と誰よりも早く警告を発していた
その予言から50年後
日本は英国と同盟を結び
ロシアと戦うことになった
英国はなぜ直接ロシアと戦わなかったのか
もし共闘で英国が直接ロシアと戦って
自分たちの権益
東アジアの権益というのはシンガポールから東のこと
を確保しようとすれば
シンガポールあたりを拠点にして
東アジアに大きな艦隊を配置しなければならない
東アジア全体制圧する新しい艦隊を
作らなければいけなくなる
それには膨大な費用がかかる
それよりは、日本を英国の代理人に仕立て
代わりに戦わせたほうが万事都合がいい
これが大英帝国の英智だ
実際英国は幕末の薩摩藩に兵器を提供し
徳川幕府を転覆させると
今度は明治政府との関係を確立
極東の日本に近代海軍を建設する
大事業に深く関与していく
日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた
戦艦三笠や金剛は英国のヴィッカヴィッカーズ社に
発注して建造されたものだ
自分が戦争するより兵器や軍艦を
売ったほうが儲かるからだ
日露戦争で日本が勝ったということは
同時に英国の大勝利でもある
ロシアは敗戦のショックで
対外進出もストップする
アフガニスタンに ついても
英国がアフガニスタンの体制を
変更しないと保証する限り
英国が統治することをロシアは
受け入れざるを得なかったのだ
ここからロシア帝国は衰退期に入り
第一次世界大戦中の1917年(大正6年)
にロシア革命が起きロマノフ王朝による
ロシア帝国は滅亡することになる
いずれにしても当時の日本は
富国強兵の真っ最中で国力が
弱く英国に頼るしかなかった
とはいえ英国の代理人になり
露助と戦争したことは
英国の利益ばかりだという印象だ
現代でも米国が日本に軍事基地を
置いているがいざという時に
米国が助けてくれることはない
日本が日本人が自らこの国を
守る決意を持ち自国の防衛を
強化する
我々が主張する
国防体制の拡充が急務なのだ
国防力、国力の弱い国は
強者に利用されるだけなのだ
次回はフーヴァーさんの著書について
再度書こうと思う
今日はこのくらいにしといたる