Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

ABCD包囲網

どうも村田です

今日も終戦記念日を迎えるにあたり

先の対戦について記事を書く

その前に昨日は幹部会だったが

兄弟分がこのブログを楽しみに

なってきたと言ってくれた

実は毎日の更新にちょっと疲れて

きていたので励まされたようで

嬉しいやら中途半端できないので

悲しいやら・・・

だが当分気力の続く限りは

続けていこうと思い直したところだ

1941年(昭和 16年)7月

米国は、日本に経済制裁をする

日本ではよくABCD包囲網と言う

当時はそういう言葉はなかったが

後年そう言われるようになった

ABCDとは対日経済制裁を

していたアメリカ(Amerika)

イギリス(Britain 、中華民国(China 

オランダ(Dutch)の 各国の頭文字を並べたもの

特に米国による経済制裁は

在米資産凍結、石油の禁輸という

厳しいものだった

フーヴァーは『フリーダム・ビトレイド』で

これ( 41年7月の経済制裁)こそ

「日本に対する宣戦布告なき戦争であった」

のであり「米国を戦争へ誘導していったのは

他ならぬルーズベルト(大統領)その人であった」

と書いている

そして、 「それはこれまで明らかにされた冷静な

歴史の光に照らしながら、1938年から1941年の

期間を客観的に観察すれば、自ずと明らかである」と

はっきりきり言っている

要するに、ルーズベルト大統領こそが

日本を戦争に導いていった張本人である

日本はそれに乗せられてしまった

ということを主張している

なぜルーズベルトは日本との戦争を望んだのか?

1939年(昭和 14年)9月

ドイツがポーランドに侵攻したことから

第二次大戦は始まった

この時点では日本も米国も開戦していない

1940年、ドイツ軍はまたたく間にパリを占領

フランスを降伏させる

さらに8月からはドイツ空軍が英国の

本土に空爆を開始するなど英国は

ドイツに本土上陸寸前まで追いつめられていた 

1941年6月にドイツ軍は独ソ不可侵条約を

破棄、ソビエト連邦に侵攻、ソ連も

どんどん押し込まれていく

1941年中ごろには、ドイツ軍は、

ヨーロッパの大半と北アフリカの一部を

占領するなど圧倒的な優勢を保っていたのだ

もうひとつ重要な事は、中華民国だ

日本軍の攻勢で首都南京は1937年 12月に陥落

中華民国政府は四川省の重慶への疎開を 

余儀なくされどんどん追いやられていた

英国のチャーチルも、ソ連のスターリンも、

中華民国の蔣介石もとにかく

早く米国に参戦してもらいたかったのだ

米国はすでに世界最大の工業国となっており

その兵器生産工場がフルに回転し

米国が兵隊を送ってくれなければ

彼らは各個撃破でやられてしまう

そこまで追い詰められていた

だからみな、ルーズベルト政権に対し

とにかく早く第二次大戦に参加してくれ

と一生懸命働きかけていたのだ

米国参戦への働きかけは

本が何冊も出ているくらい

いろいろな工作がなされていた

この3人はそもそもルーズベルトにとって

近しい存在だったのだ

ルーズベルトはソ連が大好きで

大統領に就任してすぐにソ連を承認している

冷酷な独裁者ヨシフ・スターリンを

アンクル・ヨシフ(アンクル・ジョー)と呼ぶほど

スターリンには親しみを持っていた

ルーズベルトの側近やブレーンにも

ソ連のスパイやシンパが山のようにいた  

これは秘密でもなんでもなく

公然たる事実だ

ルーズベルトは大恐慌の経済危機を

克服するためにニューディール政策を行う

これは伝統的な自由主義経済の原則を

大幅に修正し連邦政府が積極的に経済に

介入することを基調としたもので

急進的な社会改革の中身を見れば

それが計画経済そのものであり

彼の社会主義への志向の強さがうかがえる

ルーズベルトは社会主義こそが

新しい時代のトレンドであり

米国も長期的には計画経済の方向に

行くべきであると考えていた

この点でスターリンと世界観が一致していた

 

ルーズベルトはチャーチルとも仲が良く

早くから米国の参戦を訴えていた

チャーチルとルーズベルトは

太平洋戦争前の1941年(昭和 16年) 

8月に大西洋憲章を調印するが

その時点で米国の参戦について話し合ってた

ことが明らかになっている

米国のルーズベルト政権を誰よりも

頼りにしていたのが中華民国の蔣介石だ

このままでは日本にやられてしまう

という思いがあり米国に早く参戦して

もらいたかったのだ

そのために蔣介石の夫人である 

宋美麗を米国に送り込む

この人は、 浙江閥の当主

宗嘉樹)の三女で

その財閥の金を米国のあちこちに

ばらまいてコネクションを作っていく

ルーズベルト大統領やその妻エレノアと

親密な関係を構築したのはもちろんで

米国全土をまわって自ら英語で演説し

抗日戦への援助を訴え続けた

広報活動を通じ外国の国民や世論に

直接働きかける外交活動を

パブリック・ディプロマシーと言うが

宋美麗は蔣介石のスポークスマンとして

パブリック・ディプロマシーの達人であり

米国の世論を上手に取り込んだのだ

このとき、蔣介石は米国内のキリスト教会を

煽り「日本は悪者でありチャイナはその可哀想な犠牲者だ」

というプロパガンダを米国中に広めていく

実は、米国の教会関係者には中華民国に

対する強い思い入れがあった

19世紀から中華民国にキリスト教

布教のために宣教師を送り続けお金を使い続けていた

実はキリスト教がシナへ伝来したのはもっと古く

7世紀の唐の時代からと言われている

いくらやっても本心からキリスト教徒に

改宗する人は増えないのだが

米国人宣教師は非常に熱心に布教し続けた

余談だが日本にもイエズス会の

フランシスコ・ザビエルの時代から

宣教師来ていたがクリスチャンの数が

増えることは一貫してなかった

日本人にとって、キリスト教は必要なかったからだ

みな道徳心もあり倫理感もあり独自の文化、伝統も

しっかりしている

要するにキリスト教がなくても

日本人はきちんと暮らしていけるからだ

日本では、カトリックもプロテスタントも

キリスト教徒の数はだいたい一定で

1%以上には増えないのだ

宣教師からすれば日本で布教活動をしても

使命感を感じられないのだ

真面目でちゃんとした生活を

している人を見ても燃えないから

シナに行くのだ

シナに行く米国の宣教師は

モチベーションが高くなる

シナの人たちはもう本当に貧しく

だらしなく神の救いを求めている

人たちがたくさんいる

そう見られていた

そういう人たちを目の前にすると

使命感に火が点くのが米国の宣教師なのだ

殺されても殺されてもシナの

奥地に行き一生懸命布教するのだ

こういう事情から親中反日になった

教会関係者が多かったのだ

米国内では、教会の聖職者は

極めて大きな影響力がある

地方には、素朴なグッド・クリスチャンの

信者が大勢いる

その人たちが聖職者から

「日本人は悪いやつらだ」

「チャイニーズはかわいそうだ」

という話を聞かされていると

そんな嘘の話でも疑いなく

米国社会に浸透していったのだ

ABCD包囲網から米国参戦までの

経緯を途中までだが確認した

ここにも告げ口と嘘による

反日プロパガンダがあったのだ

現代でも同じようなプロパガンダが

韓国や中共により行われている

これに対しては毅然として

こちらも反論していかなくてはならない

そう思うのだ

今回はここまでとしよう

次回はルーズベルトが

どのように決断して参戦したか

を書いていこうと思う

今日はこのくらいにしといたる

Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

Follow Me