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振り返り再認識した

どうも村田です

昨日から終戦記念日を迎えるにあたり

先の対戦について考えてみるそんな

記事を書いているが今日は

まずは日米関係の歴史を復習しておきたい

江戸時代末期の1853年(嘉永6年) 

米国のペリー提督が黒船 4隻を率いて

浦賀に到着鎖国政策をとっていた

徳川幕府に開国を迫まる

ペリーが日本に来た理由は

当時、日本近海で操業していた

米国の捕鯨船に食糧、燃料、水などを

供給する港を開くためだ

そのころの米国は捕鯨が一大産業で

米国の人口が増大し国家経済が発展するに従い

が必要になっていた

鯨からとれる鯨油はランプに使う燃料として

最適だったからだ

余談だは今ではクジラやイルカを

捕るなとほざいているがやっていたのだ

米国の捕鯨船は太平洋を西へと

その捕鯨漁場を拡大していく

そこでたどり着いたのが日本列島近海だ

日本には伝統的な捕鯨漁業が発達していて

当時の日本近海には多数の鯨が生息していたのだ

米国は日本近海の豊かな鯨の漁場に

目をつけたのだ

当時の米国の捕鯨船は一度漁に出ると

船倉に樽詰めした鯨油が満杯になるまで

2~3年は帰国しないで漁を続けた

そのためには燃料の薪や食糧

水の供給基地が必要だった

鯨油は捕獲した鯨から脂身をとり

そこから作るがその過程で肉や骨は

すべて海に捨ててしまう

それが米国式の捕鯨産業だったが

19世紀の半ばに石油が発見され

ランプの燃料も石油に替わった

その後捕鯨産業は一気にすたれたのだ

ペリーから開国を突き付けられた

幕府は、翌年、日米和親条約を結び

下田・函館を開港する

ここで日本の鎖国は終わりを告げ

その後は各国と同様の条約を締結し

江戸幕府はその土台が揺らぎ

一気に幕末へと向かう

本当はペリーはその他に当時の清朝と

交易を開始するという目的があった

というより交易の点から言えば

シナが最終目的地だった

しかし米国は南北戦争を始めたことで

東アジアでは何もできなくなった

南北戦争とは米国史上最大の戦争で

この南北戦争で 60万人以上が死んでいる

第二次世界大戦で亡くなった米国人は

 40万人ほどだ

米国はこの間外に目を向けるられず

しばらく身動きがとれなかった

そのうちに日本の開国のプロセスが済んでしまい

幕末の日本はフランスとイギリスによる奪い合いとなり

フランスが幕府の側につき

イギリスは薩長の側についていた

表面上は薩長が勝ったとなっているが

つまりは英国の勝ちと言うことなのだ

このころの日米関係史を見るとき

興味深い歴史がある

米国国内のことだが1776年

 13州の連邦国家として英国に対して

独立を宣言している

その後次々と西部に進出し領土大を

進めていたが1848年にカリフォルニアを

獲得して太平洋岸まで到達した

次は海の向こうのハワイだとなり

ハワイを乗っ取るわけだ

ハワイ王国は、初代国王カメハメハ1世

(カメハメハ大王)とその子孫によって

治されたれっきとした独立国だった

しかし19世紀中ごろから砂糖・パイナップル

事業などで米国の進出が顕著になり

土地が買いたたかれ1893年

事実上米国がハワイを支配する

その後 ハワイ王国を倒して共和国とした

この米国によるハワイ征服の過程を

ハワイ王国の側から振り返ると

ハワイ王国には、アメリカ系、

イギリス系、先住ハワイ人という

政治的グループが形成され互いに対立していた

ハワイの王は代々米国を牽制するために

親英的で、増大する米国人実業家勢力を

抑止するため英国への接近を試みるなど 

したがうまくいかなかった

カラカウア王は1881年(明治 14年) 

ひそかに世界一周旅行の旅に出る

日本をはじめ、アジア、ヨーロッパを

まわる約 10カ月の旅で旅の表向きの理由は

ハワイへの移民の促進交渉と表敬訪問だ

しかし米国に対抗するための各国との交渉や

ハワイの労働力不足に対する協力要請などが

本当の王の狙いだった

当時アジア太平洋地域で列強の植民地に

なっていない国は日本くらいで

日本と縁組をすれば、ハワイ王国の安泰に

つながるとハワイの王様は考えたのだ

日本を訪れたカラカウア王は

明治天皇に謁見し日本人のハワイ移民促進を

要請したそして、王の姪で王位継承者の

カイウラニ王女と皇族のひとり

山階宮定麿王(のちの 東伏見宮依仁親王)

との縁談をもちかけた

その中で日本・ハワイを連邦化し

日本主導によるアジア共同体の

創設を提案したと言われている

カラカウア王は、白人の外来勢力の

拡大を阻止して独立を全うしよう

という夢を持っていた

日本政府は米国との対立を避けるため

この提案に対し親書をもって丁重に断った

しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え

85年から 94年にか けて3万人近くの

官斡旋の移民がハワイに渡った

1893年(明治 26年)ハワイで

クーデターが起こる

米国人農主らが米艦ボストンに

乗り組んでいた海兵隊150人の

協力を得て王政を打倒して臨時政府を樹立

その臨時政府がアメリカに併合を求めた

女王のリリウオカラニは

幽閉状態にされた

日本は急遽在留邦人保護を理由に

巡洋艦「浪速」と「金剛」の2隻を

ハワイに派

浪速の艦長は、若き東郷平八郎大佐

ホノルル港に停泊中の米艦ボストンの

両側を挟んで真横に投錨し

次の声明を発表する

 

武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。

我々は危険に晒された無辜の民の安全と保護に当たる

浪速はその後帰国するが1年後に再び姿を現す

臨時政府は共和国の「建国1周年」を祝う礼砲を

要請するが東郷は「その理由を認めず」と

突っぱねた。勇気ある決断だ

港にいた他国の軍艦もそれにならい

祝砲を撃たず世界の新聞は

ホノルルの港はハワイ王朝の

喪に服すように静寂に包まれた

と報道した

米国からすればお祝いかもしれないが

ハワイの原住民や東郷平八郎にとっては

そうではなくひとつの国が植民地になり

亡国となった

同じ有色人種の国が

白人に乗っ取られて東郷は

祝砲は打つべきではないと思った

のは当然のことだ

日本人として東郷の判断は誇れること

現代でも中共はウイグルやチベットなど

農業を教えるなどの理由をつけて

侵入し人数がそろえば手のひらを返し

突然襲い掛かり降伏させる

このような非人道的行為で

他国を侵略することは許されない暴挙

多少状況は違うと思うが

歴史から学べばいつの時代も

似たような手で侵略することがわかる

日本も現在中共が直接ではないが

裏に中共政府がいる実業家が

日本の土地を買い漁っている

これもこのハワイと同じような

状況であることを再認識すべき

そして自国の土地を売ることの

できない法整備をすべき

文字通りの売国行為はやめるべきだ

と言うことで

まずは米国との関わりを

おさらいしてみた

次回はロシアと英国との関わりを

みて行こうと思う

今日はこのくらいのしといたる

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