どうも村田です

昭和6年9月に
満州事変が勃発
するのだ。
その筋書きを書いた
のは石原莞爾(かんじ)
なのだ。
実行を指導したのは
板垣征四郎。この
2人の名前が大きく
浮かび上がるけれど、
東條はまだこの時、
メディアに登場して
いないのだ。
翌昭和7年の5月15日に、
いわゆる五・一五事件
という
犬飼首相の暗殺事件が
起こり、陸軍の内部
には皇道主義、
自分たちにとって一番
大切なのは皇道、
天皇の道という意味だが、
皇道主義であるという、
そこで皇道派と呼ばれる
のだが、
いわば右翼の派閥が力を
得始めていた時であるのだ。
犬飼内閣の陸軍大臣に
就任した荒木貞夫、
この人は仲間である
真崎甚三郎を台湾から
呼び戻して、参謀本部の
次長に据えるのだ。
そして参謀本部の部長
としては小畑敏四郎、
それから永田鉄山が登用
されるのだ。
ところで、この小畑と
永田の2人の間は、
このころからどうも険悪に
なっていくらしいのだ。
2人とも50歳前後であり、
出世と権力への執着が
非常に強い年ごろなのだ。
競争意識が激しくなった
せいかもしれないのだ。
その小畑が戦闘的な
皇道主義者であったのに
対して、
永田鉄山は後に統制派と
呼ばれる人々の内に
入っていて、
その統制の方針を支持して
結束を固めていくわけ
なのだ。
その中に土肥原賢二、
それから板垣征四郎、
そしてその1期後輩である
東條英機がおり、
そのまた1期後輩に
山下奉文(ともゆき)、
奉文(ほうぶん)と書く
人で
それから石原莞爾(かんじ)、
それからこれもまた
やがて東條と深い関係が
生じる
武藤章(あきら)等が
いたのだ。
この小畑敏四郎と
永田鉄山との対立が
激しくなるにおよび、
永田に対する敬愛が絶大
だった東條は、小畑だけ
でなく
その仲間の真崎甚三郎にも
何かと反発するようになり、
昭和8年の3月にあった
人事異動で参謀本部付という、
これは本部付というのは
大した仕事がない閑職
なのだ。
その閑職に追いやられて
しまうのだ。
その真崎もまた、
それから間もない8月の
異動で参謀総長であった
閑院宮載仁親王
(かんいんのみや
ことひとしんのう)
から
因果を含められて
参謀本部を去るのだ。
これで皇道派の勢力が
大いに減退するわけ
なのだ。
この時の異動で
真崎甚三郎の後任
となった植田謙吉
という人だが、
これは大変公正な人で
あり、小畑と永田の
両方をけんか両成敗
という形で、
2人とも参謀本部から
出してしまうのだ。
東條もこの時、
本部付という閑職に
置かれていて、
やや憂鬱(ゆううつ)な
日々を送るよりほか
なかったのだが、
やがて1つの転機が
訪れるのだ。
それはどういうことか
と言うと、これは
昭和9年の1月のことだが、
斎藤実(まこと)内閣の
陸軍大臣であった荒木貞夫が、
何か肺炎を病んで辞職して
しまうのだ。
後任には朝鮮から
呼び戻された林銑十郎
(せんじゅうろう)
という大将が就くのだ。
この林銑十郎
(せんじゅうろう)
は満州事変の際に
参謀本部の命令を待たずに、
朝鮮軍を率いて国境を
越えて満州に入った
ということで越境将軍、
国境を越えた将軍
越境将軍というあだ名
で呼ばれたのだ。
そこでかなり名を
残した人なのだ。
ところが、林銑十郎
(せんじゅうろう)
はこの間に考え方が
変わっていたのだ。
林は昭和9年3月の
人事異動で、それまで
特に面識があるわけでは
なかった統制派の、
永田鉄山、この時少将
であったが、それを
軍務局長に据えたのだ。
東條はやはりこの時
少将で、士官学校幹事と
いう、
これも閑職であるが、
この時、九州は久留米の
第24旅団長に追い
やられるのだ。
いずれ予備役にまで
落とされるのではないか
という予想もあった
らしいのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

