どうも村田です

杉山総長も御返事の
しようもなく黙りこんで
しまうのだ。
児島襄(のぼる)さんの
長編小説と言っては
おかしいかもしれないが、
ドキュメンタリー文学
児島襄(のぼる)さんの
『天皇』
に生き生きと描き
出されている有名な
場面なのだ。
翌9月6日の御前会議の場面
も各種の現代史が取り上げて
いるので、ここでは詳しく
述べないのだ。
とにかく
「対米開戦ももはややむを得ず」
という状況が明らかに
なってきた場面なのだ。
そこで、9月6日の御前会議
の場だが、明治天皇の懐
から紙片を取り出されて、
明治天皇の御製を
読み上げられるのだ。
「よもの海 みなはらからと
思う世に など波風の
たちさわぐらむ」
というその御製を、
はっきりしたお声で
2度読み上げられ、
「これが現在の自分の
心境なのだ」と仰せ
られるわけなのだ。
しかし、これは
どこまでも昭和天皇の
心境をお述べになった
までであり、
「日米開戦の国策を
裁可することができない」
という意思表示ではないのだ。
それは大日本帝国憲法の
規定ではできないことに
なっているのだ。
輔弼(ほひつ)の臣が
一致して上奏した国策は
すなわち決定的であって、
天皇はそれをご裁可に
なる以外のことは
できないのだ。
この時までに、昭和の
歴史でもって唯一の
例外的事態が生じて
いるが、
それはご存知と思うが
二・二六事件の時なのだ。
あの時、
「岡田啓介総理大臣が
もう殺されてしまった」
と思われていたために、
輔弼(ほひつ)の機能が
まひしてしまったのだ。
そこで決起将校というのは、
すなわち反乱軍である
という天皇陛下の御聖断が
国家の統一的な判断となった
のだ。
昭和16年の9月の時点での
「日米交渉が成立しなかった
場合は対米開戦だ」という
国策も、
輔弼(ほひつ)の臣の
統一した意思だから、
すなわちもう決定済みなのだ。
天皇もそれに異を唱える
ことはできないのだ。
明治天皇の御製を奉唱
されたとしても、それは
天皇の内面の強い情動、
心の動きを表明されたまで
のことであって、
「対米開戦を許さぬ」
とおっしゃったのでは
ないのだ。
その時の天皇の内心を
確実に読み取って衝撃を
受けたのが東條陸軍大臣
だったのだ。
東條は、
「天皇の御本心は
開戦に反対なのだ」
というふうに確実に
読み解いたのだ。
そして、その解読の
結果を公然と口に
ものぼせるのだ。
近衛は、なおも日米交渉
の成果に一筋の希望を
つないでいるのだ。
ついに力が尽きた形で
10月16日に内閣総辞職を
決めたわけなのだ。
それは
「もう日米交渉の成立は
絶望だ。あとは開戦の
道しかない」
と見極めがついた形で
辞職するのだ。
その時に東條陸軍大臣を
跡継ぎの総理大臣に
推薦したのは、内大臣の
木戸幸一なのだ。
木戸は、
「何とかして開戦を避けたい」
という天皇の御内心を
忠実に受け止めた
東條陸軍大臣の天皇に
対する無比の忠誠心を
よく知っているのだ。
「東條ならば天皇の
平和への御信念を
何とかして満たす方向へ、
回転のかじをとって
くれるのではないか」
との期待があった
ようであるのだ。
事実、10月18日に発足
した東條内閣は、
9月6日の御前会議での
天皇の御発言を、
「白紙還元の御諚」
御諚というのは天皇陛下の
仰せのことでこういう
難しい言葉を使うのだが、
「白紙還元の御諚」
と呼び、それまでに
政府が遂行してきた
戦争への準備は
白紙に還元されたのだと
いう異例の姿勢をとる
のだ。
そして、日米交渉の
成立への最後の賭けとして、
来栖三郎大使を急きょ
アメリカに派遣するのだ
さらに、東條内閣の
外務大臣には、外交官
としての実績が非常に
積み重ねてある
東郷茂徳を起用し
肝心の場で陸軍の内部の
強硬派を抑えるために、
自ら陸軍大臣を兼任するのだ。
しかし、もう10月18日は
時すでに遅しだったのだ。
さらに具合の悪いことに、
アメリカ側は日本の
外務省が発信する
在米日本大使館宛ての
機密電報をほとんどすべて
解読しているのだ。
いわば日米交渉に当たる
日本の手の内を知っている
のだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

