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招き寄せたんじゃ

どうも村田です

21歳で陸軍士官学校

に入り、翌明治38年

22歳で卒業しているのだ。

ちょうど士官学校

在学中に日露戦争が

始まっており

卒業が38年、これは

3月に奉天の大会戦が

あり

そのすぐ後であり、

4月に陸軍歩兵少尉に

任官して、

近衛歩兵第3連隊の

補充隊に配属されて

満州に渡るのだが

もうそのころ、主な

陸上の戦争は終了

しているのだ

従って、日露戦争での

戦闘経験はないようで

あるのだ。

明治40年12月に

陸軍歩兵中尉となり、

42年4月に25歳で結婚

しているのだ。

そして、大正元年の

12月に28歳で陸軍

大学校に入学しているが、

第27期生だったよう

なのだ。

この大学校では父の

英教(えいきょう)が

首席で卒業という

大変名誉な成績を残して

いるのに比べると、

成績優秀というわけでは

なかったようなのだ。

しかも3度目の受験で

やっと合格して、

56名中11番の席次で卒業

したそうなのだ。

父英教(えいきょう)

が首席で卒業しながら、

その後このお父さんは

武運に恵まれず、

さほどの戦争の興行も

ないままに、陸軍の

内部での地位も上がらずに、

いわゆる不遇の感に

苦しんでいたようで

あるのだ。

長男の英機が陸大に

入学した年の翌年だが、

大正5年の暮れに59歳で

亡くなっているのだ。

父親に比べると、学歴の

パッとしない英機が、

意外にも晩年には世界史に

名を残す重要な人物となる

のだが、

それは少し後の話で

あるのだ。

陸軍大学を卒業した

後の経歴も地味なもの

であり、

大正8年、1919年になるが、

その9月にドイツ国駐在を

命じられて、

まずスイスのベルンに

行くのだ。

そこで公使館付武官を

務めて、それから

ベルリンに移るのだ。

その後に、英才の

聞こえの高い永田鉄山

という人で、

その人が、永田さんが

ベルンに来る、そして

東條がベルリンに移って

いるから、

ベルリンの東條と

ベルンの永田との間に

深い付き合いが生じた

らしいのだ。

この2つの街、ベルリン

とベルンだが、かなり

離れているけれど、

いずれにせよ急行列車

で往来はできる距離で

はあるのだ。

士官学校で1期先輩の

16期生の永田鉄山に

向けての、

東條がこの時に覚えた

敬愛というのは非常な

深いものだったらしいのだ。

永田鉄山の方で東條を

どのように評価して

いたかはあまりよく

分かっていないのだ。

同時に、ソ連駐在武官

を務めていた小畑敏四郎

と岡村寧次(やすじ)

という人が、

その合計4人でバーデン

で会合して陸軍内部の、

陸軍は山縣有朋以来、

長州閥と言われている

長州の出身者の勢力が

強かったのだが、

その長州閥を何とか

打倒して、もっと

開かれた組織にしたい

というような相談が

あったらしいのだ。

ドイツ滞在を終えた

東條は、帰国後に

大正11年、

1922年に当たるが、

中佐で陸軍大学校の

兵学教官となるのだ。

後に直属の部下となる

佐藤賢了などは学生に

いたようなのだ。

その佐藤、後に

大変深い付き合いが

生じる人だが、

その佐藤の回想によると、

東條は欧州戦争史の

講義をする際に、

フランスの地名を

ドイツ語つづりの

ままに読むという

癖があり、

学生たちがひそかに

笑いの種とした

ということが伝わって

いるのだ。

それは、東條が

フランス語の初歩の

勉強もしなかった

ことの表れなのだ。

大使館付武官として

ヨーロッパ、とにかく

ドイツに滞在しながら

フランス語の勉強を

全くしていなかった

ということは、

彼の視野がどうしても

ドイツに限定されて、

フランスの歴史を勉強

してみなかったという

ことであり、

当然彼のヨーロッパ観、

あるいはヨーロッパ

というものの歴史観が

狭く限定されていた

ということを示して

いるのだ。

この大正11年は陸軍の

大御所、山縣有朋の

死んだ年でもあるのだ。

陸軍内の長州閥が

山縣という大きな

後ろ盾を失ったことに

なるわけなのだ。

それがかえってまた

幾つかの派閥が互いに

覇権を争うような

事態を招き寄せた

ようなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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