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忠誠心なんじゃ

どうも村田です

この永田鉄山

という人が昭和10年

の8月12日という日だが、

陸軍省軍務局長室で

執務中に相沢三郎という

中佐に斬り殺されたのは

かなり有名な事件で、

この相沢三郎という人は

本当に少し気が違って

いたらしいのだ。

真っ昼間にお役所の

中で勤務中の上司の

永田将軍を斬り殺す

という、

そういう行為に及んだ

わけなのだ。

翌年が昭和11年

西暦で言えば1936年だが、

これが有名な二・二六事件

の年であるのだ。

この年に東條は表立って

歴史に残るほどの動きを

示したわけではないのだが、

初めて歴史の記録に残る

ような言動、言葉と行動が

あったということが、

すなわち歴史に記録される

わけなのだ。

どういうことかと言うと、

その二・二六事件が発生

した時、

東條は関東軍の憲兵司令官

として満州にいるのだ。

ところが、この

二・二六事件の真相とは、

現地の東京にいた軍人

たちでもよく把握でき

なかったのだ。

一体どういう性格の

事件であるのかが

つかめないまま、

皆おろおろするばかり

だということであり、

そういう人が多かった

中に反乱を起こした

青年将校団の言い分を

真に受けて、

昭和維新の決行の義挙

であるかのように誤解

した人が多かったのだ。

あるいは、これは

要するにたぶらかされた、

だまされたというべき

だが、

そういう高級軍人が

少なくなかったのだ。

それと、将官クラスでも

いわゆる日和見(ひよりみ)

の態度を取って、

事件の行き着く先の

傍観を決め込んだ

というものが多くあったのだ。

まして外地にいる軍人たち、

例えば関東軍の参謀将校

たちには、

反乱を起こした青年将校

たちが一体これは反乱の徒

であるのか、

それとも本当に義挙を

起こした義軍であるのか、

判断がつかないという人が

多かったのだ。

しかし、東京の現地では

まず参謀本部の作戦課長

であった石原莞爾(かんじ)、

この石原莞爾(かんじ)

が決起した青年将校たちを

反乱軍なりと断定して

少しも動揺がなく、

そして関東軍の憲兵司令官

であった東條も同じく

反乱軍は討伐すべきだ

という態度が非常に厳しく

決まっており、反乱に

同調するような言動を

する者は

憲兵としての職権を

行使して、軍人であろうと

民間人であろうと問わず、

ことごとく目をつけて

満州から追放する

というような、

そういう挙に及んだ

らしいのだ。

この時の東條の断固たる

態度を間近に見ていた

星野直樹という人、

この人はやがて東條の

姿勢に感嘆いたして、

彼と極めて親密な仲に

なって、

東條が後日、

昭和16年10月に第3次

近衛内閣の後を継いで

組閣したときには、

内閣書記官長の任に

就いて東條を補佐する

ということになるのだ。

ところで、東條が事件に

決起した青年将校たちを、

遠く離れた満州にいながら

即座にこれは反乱軍

であると断定して少しも

動揺しなかったのだ。

それは彼らの動きを見て

判断したのではないのだ。

そうではなくて、天皇が

信頼されている重臣たちを、

反論の将校たちが用いた

武器はもちろん官給の、

官から支給された武器

であるから、

その武器を持って殺害

するという行動それ自体が、

すなわち天皇への反逆に

ほかならないという、

そういう大原則が彼の

内部にあったからなのだ。

いわば貸し与えられた

武器を用いて天皇の臣下

の人たちを殺すというのは、

それだけでもって大変な、

まさに反乱である、

反逆であると判断したのだ。

東條も彼の青年将校

たちの動機などをくみ

取ってやる必要は全く

持たなかったのだ。

判断の根拠というのは

この大原則だけで十分

だったのだ。

東條がこの大原則を奉じて、

全く揺るがなかったという

態度はやがて、

どういう経路を通ってか

よく分からないけれど、

はっきりしないのだが、

昭和天皇のお耳に入った

らしいのだ。

そこで天皇は東條の

忠誠心を記憶に

とどめられるということに

なったらしいのだ。

そしてこのことが、

いわば東條が日本の

歴史で重大な役割を

果たすようになることの

1つの伏線となるのだ。

つまり、東條はまず

比類ないほどの固い信念

に基づく忠誠の人として

歴史に登場したと、

そう見てよいのだろう。

そして忠臣としての

東條への信頼は昭和天皇の

御心の中に深く刻まれた

のだ。

また、東條の方でも

昭和天皇への固い

忠誠心が最後まで

動揺しなかったよう

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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