どうも村田です

服部機関は服部を中心に
「陸士三四期の三羽烏」
と呼ばれた
西浦進、堀場一雄のほか、
井本熊男(陸士三七期)、
水町勝城(陸士四一期)、
稲葉正夫(陸士四二期)、
田中兼五郎(陸士四五期)、
原四郎(陸士四四期)など、
主に参謀本部作戦課や陸軍省
軍事課など陸軍の中枢部の要職に
ついた経験のある超エリートの
佐官・尉官級の人材で構成されて
いたのだ。
彼らはいずれも陸士・陸大の
恩賜組(優等生)であったのだ。
服部を含むこれらの陸軍エリート
たちの心中にあったのは第一次
世界大戦後のドイツに倣って
「再軍備」を実現することで
あったのだ。
彼ら陸軍エリートの胸中については
『秘録・日本国防軍クーデター計画』
(阿羅健一著、講談社)
に次のように書かれているのだ。
〈第一次世界大戦で敗れたドイツを
思いおこす人も多かった。
一九一九年六月二八日、ベルサイユ
条約が調印され、ドイツは参謀本部
と陸軍大学と徴兵制を禁止される。
軍用飛行機、機甲部隊、重砲を持つ
ことも禁止され、陸軍は十万、海軍は
一万五千人と制限された。
このときハンス・フォン・ゼークト
少将が残務処理を任せられる。
国軍を掌握することとなった
ゼークト少将は、ドイツ参謀本部の
伝統を守らなければならないと考えた。
連合軍監視をかいくぐって、国立
公文書館を新設して戦史研究を始め、
形を変えた在外武官を大使館に
送り込み、軍と師団の司令部で
参謀教育をする。
徴兵制は廃止になったが、中核が
しっかりしていれば、直ちに数倍の
部隊を作り上げられるとの考えから、
将校と下士官の訓練に努める。
戦車戦の研究は、トラック教習本部の
名前で行っていた。国際政治では、
敵対するポーランドに対抗するため、
ソ連に接近している。
それとともに、禁止されている
飛行士の訓練をソ連領土で行い、
ソ連領内に毒ガス工場をつくった。
こうしてゼークとは、
一九二六年一〇月に辞任する
までの七年の間に、すぐにでも大陸軍
となりうる少数精鋭軍を作り上げた
のである。
日本の新しい軍隊を考える人々の間で、
ゼークトの役を担う人物の出現が期待
された〉
服部はまさに
「日本のゼークト」に擬えることが
できる逸材で、ウイロビーもそれを
認めていたのだ。
戦史編纂業務で、服部の周りに
集まった俊秀の陸軍将校たちは、
新たに創設される国防軍の中枢に
なる人材として、
服部が準備(プール)していた
のは間違いなかろう。
服部機関は来るべき再軍備に備え
新国防軍の構想を研究したのだ。
その構想は大東亜戦争の敗因を
教訓に検討されたのだ。
服部たちは、敗因の最大の原因は
陸海軍の相克・対立であると
結論付けたのだ。
それゆえ、新国防軍は
陸軍・海軍・空軍(新設)を
単一・一本化することが最大の
眼目だったのだ。
服部の国防軍構想は成就寸前まで
進んでいたのだ
一九五〇年六月二五日、
突然、朝鮮戦争が勃発したのだ。
不意を突かれた米国政府・
マッカーサーは、押っ取り刀で
地上軍(日本駐留の四個師団・
約七万五〇〇〇人)の投入を
決めたのだ。
とはいえ、当時の日本は山下事件
や三鷹事件などが起こるなど
民心を動揺させる事件が相次ぎ、
米軍が朝鮮半島に投入され
日本に「空白」が生じれば、
ソ連に使嗾された日本共産党の
武装蜂起や北朝鮮と連動した
朝鮮人の騒乱が懸念されたのだ。
朝鮮戦争の勃発から十日足らずの
七月下旬、マッカーサーは
七万五千人規模の警察予備隊の
創設と八〇〇〇人の海上保安庁の
増員を、米政府の了解も得ずに
独断で決め、これを日本政府に
命じたのだ。
まさに泥縄状態での決断・実行で、
悲劇というべきか、この杜撰な
マッカーサーの措置が戦後日本の
運命を決定づけ、戦後レジームが
始まったのだ。
マッカーサーの決断を知った
ウイロビーと服部たちは
「再軍備の好機到来」と考えた
であろう。
国防軍と警察予備隊の中身は
雲泥の差はあるものの、服部たちは、
警察予備隊が国防軍へのステップ
アップの布石にはなりうると
考えたのだろう
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

