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惚れ込んだんじゃ

どうも村田です

参謀本部第二部長(情報)

だった有末精三陸軍中将

(陸士二九期)が設立した

機関で、

GHQの参謀部第二部長

・ウイロビー陸軍少将と

連携して、ソ連や中国など

へのスパイ活動などを行った

といわれるのが有末機関

なのだ

有末は終戦直後の九月上旬、

米軍が横浜に上陸した直後、

対日連絡課長マンソン大佐

から上司のウイロビー少将を

紹介されたのが出会いの

始まりだったのだ。

情報を掌る参謀本部第二部長

だった有末の下には中野学校

出身者がいたはずだが詳細は

不明なのだ。

なお、有末機関については、

有末自身が書いた

『有末機関長の手記―終戦秘史」

(芙蓉書房出版)が詳しいのだ

辰巳機関

辰巳栄一陸軍中将(陸士二七期)

により設立された機関なのだ。

辰巳は中国の鎮江にあった

第三師団長で終戦を迎え、

翌年五月に復員したのだ。

辰巳機関設立の経緯は明らか

ではないが、駐英武官当時から

の上司であった吉田茂内閣の

軍事顧問を務めた経緯から、

吉田との関りが機関設立に

繋がったものと考えられるのだ。

辰巳はアメリカ政府・

マッカーサーの意向で

一九五〇年八月一〇日に設置

された警察予備隊の幹部人選に

関与したのだ。

この際、同期の木村松治郎

(第四師団長)や後輩の

宮野正年(第一五方面軍参謀副長、

陸士三十期)ら旧陸軍の将官

クラスの協力を得たというのだ。

辰巳は一方で、

米中央情報局(CIA)に

対する情報協力も行ったと

いわれるのだ。

CIAでは辰巳を

「POLESTAR―5」

というコードネーム(暗号名)

を付し、

「首相に近い情報提供者」、

「首相の助言者」等、

重要な情報源として位置付けて

いたのだ。

辰巳はCIAの期待通り、

内閣調査室(現在の内閣情報調査室)

や後の自衛隊の設置に関わる

資料をアメリカ政府に

流していた事が有馬哲夫・

早稲田大学教授のワシントンの

国立公文書記録管理局における

機密解除資料調査で確認された

という(二〇〇九年一〇月)。

この例のように、当時も今も

アメリカに対する情報協力は

日本の防諜当局(公安警察)

からは何のお咎めもなく、

事実上野放し状態であるのだ。

服部機関

服部は陸軍の最俊秀で、

作戦能力が抜群であったのだ。

一九三九年五月のノモンハン

事件では、関東軍作戦主任参謀

として作戦参謀の辻政信とともに

作戦の積極拡大を主導したが、

ソ連軍の大規模攻勢によって

大打撃を被ったのだ。

停戦後、植田謙吉軍司令官、

磯谷廉介参謀長らは現役を

退くことになったが、

服部と辻は軽い処分で済んだ

のみならず、一九四〇年一〇月

には参謀本部作戦班長に、

翌年七月には作戦課長に就任

するなど、陸軍の中枢に返り

咲いたのだ。

終戦直前の一九四五年二月には、

歩兵第六五連隊長として中国に

渡ったが、一九四六年五月には、

GHQの指令で中国から単独で

復員したのだ。

GHQの最初の関心は、日本軍

の戦史を記録することであった

のだ。

開戦時作戦課長を務めるなど

参謀本部の作戦を最も知悉して

いる服部が必要となったのだ。

服部は、その経験と知識を買われ、

参謀部第二部長・ウイロビー陸軍

少将の下で太平洋戦争の戦史編纂

を行ったのだ。

ウイロビーは並みいる日本の

将軍をさて置き、陸軍大佐の

服部に惚れ込んだのだ。

ウイロビーは服部の実務能力

のみならず全人格的な人間性に

深い敬意を払うようになった

のだ。

ウイロビー傘下に擁する

日本陸海軍軍人の中で服部に

対して随一の信頼を寄せ、

相当機微な問題についても

諮問したといわれるのだ。

戦史編纂業務が一段落した

一九四八年末、ウイロビーは

戦史調査部を中心に

「裏の業務」として

日本再軍備の研究と準備を命じ、

そのための服部機関が発足した

のだ。

その狙いは共産主義独裁国家

のソ連の勢力拡大

――冷戦に発展――

に対抗し

日本をソ連封じ込めのための

一大拠点にする目論見

――「逆コース」

(「日本の民主化・非軍事化に

逆行するとされた政治・経済・

社会の動き)」と呼ばれる

があったのは間違いないのだ。

ただ、日本の再軍備については

アメリカ国内においても

コンセンサスが得られて

いなかったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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