どうも村田です
警察予備隊の構想が
具体化するにつれ、次の
焦点はトップと主要幹部の
人事だったのだ。
ウイロビーは服部を
警察予備隊のトップに据え、
公職追放中の軍人の採用を
考えたのだ。
服部は、三〇〇〇名の
旧軍将校を選定し名簿の
作成まで終えていたのだ
ウイロビーと服部の
警察予備隊構想に対抗する
ホイットニー民政局長(准将)
は軍に偏見・怨念を持つ
吉田総理とタッグを組んで
これに反対したのだ。
ホイットニーは社会民主主義的
な思想を持ち主(ニューディーラー)
だったのだ。
マッカーサーはホイットニーと
吉田の意見を採用し、
「当分正規将校は使わない」
という断を下したのだ。
これにより、服部をトップとする
警察予備隊構想は潰えてしまった
のだ。
一九五〇年八月九日にGHQ
から呼び出された服部たちは
予期もしないこのマッカーサー
の判断を知らされたのだ。
新国防軍の創設に繋がる
警察予備隊の発足に希望を
膨らませていた服部たちの
驚き、失望、怒りは
当然のことだったのだ。
堀場一雄が、
「吉田なんか切り殺してしまえ」
と言ったのはこの時だったのだ。
二〇〇七年二月二七日の時事通信は、
服部らによるクーデター計画が
進められていたという米国公文書が
公表されたと報道したのだ。
この文書は
一九五二年一〇月三一日付の
CIA文書で、これによれば、
児玉誉士夫の支援を受けた
服部ら旧陸軍将校は、自由党の
吉田首相が公職から追放された者
や国粋主義者らに敵対的な姿勢を
取っているとして、
同首相を含む政府高官を暗殺して
民主党の鳩山一郎を首相に据える
計画を立てていたとされるのだ。
この件については阿羅健一氏が
服部を知るものなど、広範な
調査を行い
『秘録・日本国防軍クーデター計画』
(講談社)
で、次のように述べているのだ。
〈かつて私が服部の周りから話を
聞いていた時、クーデターを耳に
することは全くなかった。
それらしきものがあれば、耳に
していたはずだという思いがある。
(中略)
クーデター計画は、吉田首相に
対する反感の大きさを示す
エピソードではあるが、
確度の低い情報だったのでは
なかろうか。そう言わざるを得ない〉
また、鳩山政権下では、鳩山総理
と根本龍太郎官房長官により
服部の国防会議事務局防衛計画
担当参事官への起用が検討されたが、
大橋武夫や海原治などの防衛庁
内局幹部の反対により実現
しなかったのだ。
服部によるクーデター計画の
情報は服部潰しを狙うグループが
意図的に流した
「偽情報」
ではないかと思うのだ。
「偽情報」の真否は分からないが、
服部の警察予備隊のトップに就任
することや国防会議事務局防衛計画
担当参事官への起用が実現しなかった
のは「偽情報」のためではないだろうか
服部自身の自衛隊への入隊は
叶わなかったが、服部機関にいた
超エリートの軍人たちは自衛隊幹部
として入隊したのだ。
井本熊男(陸将)は陸上自衛隊
幹部学校長に、原四郎(一等空佐)は
航空幕僚監部調査部調査課長に
(その後、戦史編纂官として
「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」
を刊行)、
水町勝城(空将)は
北部航空方面隊司令官に、
田中耕二(空将)は航空幕僚副長に、
田中兼五郎(陸将)は東部方面総監に、
山口二三(空将補)は
航空幕僚監部防衛部長に
(元部下の秘密漏えい事件に
関して責を一身に背負い自決)
それぞれ栄達しているのだ。
また、稲葉正夫は防衛庁に入庁し、
戦史室編纂官として勤務したほか、
西浦進は防衛研修所の初代戦史室長
に就任しているのだ。
戦後、日米の指導者の間で
「日本の国防体制をどうするか」
という議論で、
①正規の国防軍と、
②軍隊ではない警察予備隊
という二つの選択肢があったのだ。
この際のアメリカの判断は、
世界情勢をどう見るかに
かかっていたのだ。
アメリカではスターリンの野望を
見抜いて「封じ込め政策」に
傾きつつあり、
日本をソ連の「防壁」に
しようと考えたのだ。
サンフランシスコ講和条約交渉のため、
トルーマン大統領の特使として来日
したダレス特使
(J・F・ダレスの実弟で
後にCIA長官)は、
一九五一年一月、吉田総理と
会談したが、吉田は再軍備に
消極的であったのだ。
吉田は、結局
「軍隊ではない警察予備隊」
を選択したのだ。
これが、今日の日本の歪んだ
「安全保障レジーム」
として定着してしまったのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる