どうも村田です

ジャーナリストの
徳富蘇峰は、
「教育勅語はすべての
道に通じる教えを書いて
いるのだ」
というふうに言って、
重野に反論したりして
いるわけなのだ
この状況を見て分かる
ことは、当時の政府
というのは気に入らない
出版物は禁止する権限を
持っていたので、
それが一般に出回っている
ということは、それを
明治政府が良しとしていた
ということなのだ。
だから、当時の政府は
民間においてはとにかく
「天皇陛下を大事に思う」
という気持ちさえあれば、
「なぜ大事に思うのか?」
という理由付けや根拠付け
については、
もう皆さんにお任せします
という感じなのだ。
これは、明治8年3月に
浄土真宗が大教院分離運動で
出ていく時に、
「天皇陛下は大事にします。
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
はその先祖とします。
だからいいでしょう?」
と言ったことと、それに
「いいよ」
としたことと基本的には
変わっていないのだ。
これが当時の明治政府、
あるいは近代の初めの政府
の考え方だったのだ。
それでは、なぜ、
大正10年以降に教科書に
「家族国家」論
が出てきたのか?
日清戦争から明治末年に
かけて、実は民間で
「天皇は本家、国民は分家」
「天皇は親、国民は子」
というように、
「家族国家」論というのが
すごく盛んになっていくのだ。
これは1つの説明によると、
この時期というのは産業が
盛んになって、
田舎の子弟がどんどん
都会に行き、本家が田舎に
あって、都会に分家が増えて
いくという、
すごく本家分家の関係が
出来上がっていく時期
だったのだ。
多分、その現実とこの
国家論があっていたのだろう
という説明があるのだ。
その理由はよく分からない
けれど、とにかく
「家族国家」論が
盛んになっていくのだ。
そういう時期になったので、
井上哲次郎も言っていた
『勅語衍義(えんぎ)』
を明治32年に書き換えて、
「家族国家」論というのを
そこに取り入れていくわけ
なのだ。
次第に、大正10年くらいまで、
国体論の主流が
「家族国家」論になっていく
のだ。
さらに、世の中で
「家族国家」論が盛んに
なってきたので、
井上哲次郎がそれを
取り入れるのだけれど、
もう1つ井上が取り入れ
ざるを得なくなった理由が
あるのだ。
それは明治43年に大逆事件
という事件が起きるのだ。
幸徳秋水という人が
明治天皇の暗殺を企てたと
される事件なのだけれど、
これはすごく社会に
衝撃を与えたのだ。
文部省が
「天皇中心の道徳教育を
強化しなくてはいけない」
ということになり、
それを井上哲次郎に
要望するわけなのだ。
それで、井上哲次郎は
明治43年12月に師範学校
修身科の担当教諭たちの
ために、
国民道徳について
講義するわけなのだ。
師範学校というのは、
要するに先生を養成する
学校なのだ。
先生を養成する学校の中で、
修身を担当している先生
たちの講習会で国民道徳を
説き、
さらに中等学校の教員の
講習会でも国民道徳を
説いたのだ。
そして、その説いた
国民道徳を大正元年8月に
『国民道徳概論』
という本にまとめて出版する
のだけれど、
この本の中心的な天皇論が
「家族国家」だったのだ。
この『国民道徳概論』は、
中学の先生になるための
試験の必須参考書だったのだ。
それから、全国の師範学校
や高等学校の倫理科の
教科書、さらには
文科省が出す検定試験は
必ずこの教科書から出題
されたのだ。
という形で、井上哲次郎の
『国民道徳概論』
は教育界において最高の権威
となっていくのだ。
この状態が大正末年まで
続くとどういうことになるか
というと、
先生たちは教育されて
きたから、もう頭の中は
「家族国家」論なのだ。
それが小学校の教科書に
載るのは当たり前の流れ
なのだ。
まず先生たちに教育して、
それを子どもたちに教える
教科書に入れていく
というのが大正10年まで
の流れで、大正10年に
小学校の修身教科書、
日本史教科書に
「家族国家」論が出てくる
という流れになるわけ
なのだ。
では、最後の段階で
出てくる現人神
(あらひとがみ)
や八紘一宇というのは
どういうふうに出てきた
のか?
まず押さえておきたいのは、
明治20年代以降、民間に
おいては多様な天皇論が
認められていたということ
がまず1つあるのだ。
それから、明治40年代から
大正全般にかけて、
「家族国家」論が主流に
なってきたということも
あるのだ。
この自由な議論の中から、
実は明治末年から大正の
初めにかけての新説として、
現人神(あらひとがみ)、
天皇を絶対的な神と考える
議論が出てきたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

