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なりきれと言われたんじゃ

どうも村田です

一九四五年皇軍が

解体してから八〇年を

経た今日なお、

陸軍中野学校に関心が

持たれるのは不思議なのだ。

一九四〇年八月、正式に

陸軍中野学校が陸軍省直轄で

開設されてから五年間しか

存在せず、

其の前身の後方勤務要員

養成所を含めても七年九ヶ月

しかない短い歴史の学校が、

なぜ注目されるのか。

またCIAやKGBの勤務員

養成学校については殆ど

知られていないのに、

日本では、防諜機関であった

陸軍軍事資料部については

知られずに、陸軍中野学校

だけは知っているという人が

殆どなのだ。

その軍事資料部から派遣された

東輝次

(陸軍中野学校第4期戊種学生)

が大磯の吉田茂邸に下男として

潜入したのを

「中野学校校長の特命で潜入」

と本に書いた作家がいて驚いたが、

中野学校は教育機関であり同時に

実施機関でもあったと勘違いして

いる人が多いのだ。

一、陸軍中野学校の思い出

1.一九四一年八月下旬、

陸軍士官学校を第五五期生

として関東軍特種大演習(関特演)

のため繰り上げ卒業した私は、

金沢から東満の牡丹江省八面通

に移駐していた第九師団騎兵

第九連隊に赴任した。

同年一二月早々第三軍司令部の

特命で綏芬河国境警備隊

「城戸部隊」において向地視察班長

となり、

下士官二名とともに地下トーチカ

から高倍率の砲隊鏡でソ連グロデュー

正面を四六時中極東ソ連軍部隊の

独ソ戦に伴う欧州戦線及び

クレムリン防衛のための兵力移動

状況を監視した。

着任してすぐ日米開戦を

ラジオ・ニュースで知り感無量

であった。三ヶ月後今度は南部

の老黒山密林地帯内気象調査に

従事した。

二週間くらいで帰隊。其の後、

四平陸軍戦車学校と翌一九四三年

春には奉天(現「瀋陽」)の

陸軍無線通信教育隊に学生として

それぞれ三か月派遣後帰隊したら、

教官就任の打診あるも辞退したら、

同年末に東京の偕行社に出

頭命令があった。

これが一生を左右する運命の

分かれ道となった。私の代わりに

陸士同期の池田氏が通信教育隊の

教官になったが、

シベリアに抑留されて無事帰国

したものの早く病没した。

在満二年四ヶ月のうち在隊は

約一年二カ月間に過ぎず。

陸士を出て中野学校を含めて

三つの実施学校に入校した。

因みに戦車学校副校長・

池田末男大佐(陸士三四期)

は終戦後の八月一八日占守島の

第一一戦車聯隊長として不法に

攻撃してきた

ソ連軍と戦い戦死された。

2.一九四三年一二月下旬、

東京偕行社に出頭した。

参謀本部軍事調査部への転勤命令を

下す前の人物確認であった。

翌年一月早々中野学校に入校し、

中野の民家に下宿して通学した。

学校の表看板は「陸軍通信研究所」

で、内部での身分は

「参謀本部軍事調査部員」、

「東部第三十三部隊」が秘匿名称。

自由学校の雰囲気で良かったが、

唯一抵抗を感じたのは、

陸士教育の軍人気質を捨てて

「民間人になりきれ」といわれ、

長髪にネクタイ、背広で通学したこと。

当時青年達は皆坊主刈りであった

から、長髪は目立ちすぎたから

であった。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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