どうも村田です
家康がその首を見ると、
髪の毛の月代(さかやき)
がきれいにそってあり
生首ではあるが、いい
香りがするのだ
どういうことかというと、
「私はもうここで戦死するんだ」
ということを決めている
ということなのだ
多分下着も全部きれいに
するのだが、その時は
首だけだったかもしれない
軍人というのは、特に
戦国時代の武将で、
「今日、私は戦死する」
ということが分かっていると、
服にも髪の毛にも香をたいて、
月代(さかやき)もきれいに
そって、ひげもきれいにそって、
そして下着も全部きれいに
変えて、「いつ死んでもいい」
という状況にして戦いに
臨むのだ
そういうことがきちんと
できていて、徳川家康は
木村重成の首を見て
「『感じ入った。感心した。
素晴らしい武将であった』
と言って、その死を惜しんだ」
と言われているのだ
それについては、
「大坂夏の陣において、
重成は陣中浴に入って」、
要するにお風呂に入って
「髪を洗い、香をたき、
猿楽を歌い、小包を打って
悠々としていた」。
要するに、死出の旅なのだ
「最後の決戦に臨んで、
かぶとの中に香をたいた
ゆかしい話は有名であるが、
かつて後三年の戦いで
末割四郎という者が、
朝餐(ちょうさん)が
喉にあったために」、
朝餐(ちょうさん)
というのは朝飯だが、
御飯を食べていたのが
まだ喉の所に残っていたのだ
「矢が当たって脛骨
(けいこつ)が傷付いた時、
食事が」、
食事というのは食べ物の
残りだが
「それが傷口から漏れた
という話を聞いて、重成は
決戦の数日前より食事を
減らしたという話もある。
武将は死を恐れるのと同時に、
死を潔く、清く死なんとする。
それがためには、平常より
身だしなみが大切である。
木村重成のごときは、確かに
立派な名将になったものと
惜しく思う」
というふうに書いてるのだ
少し余談だが、武士は
切腹せざるを得ないことが
あるのだ
切腹するときは腹を切るが、
江戸時代になると扇子腹と
言って、きちんと斬らない
のだ
あるいは、スーッと一筋しか
斬らないこともあるのだが、
戦国時代とか幕末などは
しっかり斬るから、
そうすると切腹する数時間前
に物を食べていると腹から
出るのだ
従って、切腹する前は
食事をしないのだ
これも身だしなみなのだ
腹を斬った時に胃から
内容物が出たら、あるいは
腸から内容物が出たら、
みっともないのだ
だから、
「そういうことを心がけていく。
それは普段からそうなんだよ」
ということを彼は言っている
わけなのだ
そして、大山巌についても
話をしているのだ
大山巌は西郷隆盛のいとこ
になるわけで、戊辰戦争でも
活躍し、明治に入ってからの
西南戦争では、
いとこである西郷隆盛と
敵味方に分かれるわけだが、
最後は元帥になったのだ
そして、日露戦争の時は
満州軍司令官として、
ロシアの軍隊と対峙(たいじ)
して勝ったという、
陸軍の一番トップであったのだ
彼なども私利私欲を全く欲しない、
自分の奥さんは会津藩の娘を
もらったりして、
「つまらないことにこだわらない
非常に人間の大きかった人だ」
というふうに言われてるのだ
それから、もう1人、彼は
「大島久直という人を尊敬している」
と書いているのだ
大島久直という人も、
ほとんど分からないと
思うが、
彼は明治時代の軍人だが、
秋田県の出身で
そして、日露戦争の時には、
金沢の第9師団の師団長
として出征したのだ。
最後は大将になったけれど、
大島は
「大変に怖い長官だった。
将軍だった」と言われて
いるが、こう書いてあるのだ
「日露戦役中、旅順攻囲戦に
加わった大島久直大将は」、
当時中将だが、
「乃木将軍麾下(きか)の
師団長であった」。
乃木は第3軍司令官で、
その下の第9師団長なのだ
「軍服の上に白ちりめんの
帯を締めて、軍刀を差して」、
要するに江戸時代の侍のように、
縦ではなくて横にグッと差して、
「これを落とし差しにして
いたことで有名である。平常
演習の講評など、
『ひげの大島』といえば、
その峻烈(しゅんれつ)さが
聞こえていたが、
いざ戦場になると、
『戦地に来ると部下が
よくやってくれる』と言って、
平常とはがらりと違って寛大で
あったとの好一対の話である」。
要するに、平時においては、
訓練の時などはものすごく
厳しいけれども、
いざ戦地に行ってみると、
部下に大変優しく接した
ということなのだ
部下に優しく接すれば、
戦地において兵隊は戦えるのだ
これが戦地においても厳しく
やると、兵隊は臆病風に
吹かれる、尻込みをして
しまうのだ
そういうことがよく
分かっている人間であったのだ
要するに、情というもので
それがよく分かっていた
ということを彼は言ってるのだ
外国人が2人出てきて、
1人はドイツの
ヒンデンブルクなのだ
彼は20世紀初頭のドイツの
軍人で政治家でもあるのだ
普墺戦争のプロイセンと
オーストリアで
それから普仏戦争の
プロイセンとフランスなのだ
その戦争に従軍して、
第一次世界大戦では軍司令官
として、タンネンベルクの
戦いでロシア軍を撃退したのだ。
この時は、実はロシア軍は
非常に早く起動して、そして
ドイツに向かって攻めてきた
のだが、その一角が崩されると
ドイツは本土まで攻め込まれる
ということになっていたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる