どうも村田です
祖父の兄(伯祖父)は
潜水夫で、子どもの私に
「俺は生きている間に
ナヒモフ号を引き上げる。
お前にも財宝を分けてやるよ」
とよく言っていたのだ。
また、父方の祖父は
「宇久島(五島列島最北の島)
でも連合艦隊とバルチック艦隊
とが砲撃し合う音がドーン・
ドーンと聞こえた」
と言っていたのだ。
そんな経緯もあり、子どもの
ころから日露戦争には格別な
興味を持っていたのだ。
三.我が行動方針
この段階では、任務達成のため
に実行可能な「我が行動方針」
を列挙するのだ。
明治政府・参謀本部は、上記の
第一・二段階での分析・思考を
通じて、日露戦争における
日本帝国陸海軍の行動方針として、
「満州に進出したロシア野戦軍
の撃破およびロシア順艦隊と
ウラジオストク巡洋艦隊の撃沈」
が当面追求すべき目標である
と判断したはずなのだ。
しかし、これだけでロシアの
極東進出を断念させ、終戦交渉
に持ち込めるかどうか不安
だったに違いないのだ。
孫子は
「戦いは、正を以って合し
、奇を以って勝つ」と
教えているのだ。
これすなわち「敵との戦いは、
敵の正規軍に対して我が
正規軍により正規の戦いを
もって対抗し、
これに加えて非正規戦
(謀略・工作などの奇策)
を用いて勝利に導く」
と言うことなのだ。
日露戦争において、
「日本陸海軍(正規軍)に
よるロシア野戦軍の撃破や
ロシア海軍の撃沈」を
「正」とすれば、もう一方で
「奇」が必要になるのだ。
その「奇」こそが、
明石大佐による
「ロシア国内の騒擾
【そうじょう】化を
図る謀略工作」
だったのではないだろうか。
また、日露戦争当時の政府・
陸海軍首脳部
(伊藤博文、山本権兵衛、
山縣有朋、大山巌、川上操六、
桂太郎、児玉源太郎、田村怡与造、
長岡外史、福島安正など)
は明治維新の修羅場を
潜り抜けてきた強者揃いで、
「ロシア国内の騒擾化
を図る謀略工作」
の重要性を十分に理解して
いたものと思われるのだ。
特に長岡外史参謀本部次長は
明石大佐からの矢の催促に応じ、
一〇〇万円の工作資金を
出すことを決定していたのだ。
ちなみに、日露戦争当時の
国家予算六億八〇〇〇万円に
占める
明石の工作資金一〇〇万円の
比率を、二〇一九年度の
一般会計の歳出総額
一〇一兆四五六四億円に
当てはめれば、
一四七〇億円に相当するのだ。
四.各行動方針の比較
この段階では、
「我が行動方針」と
「敵の可能行動」を
組み合わせて時間の経過に
従って
ウォー・ゲームを実施する。
これを通じて、それぞれの
「我が行動方針」
の利点や問題点・対策など
を明らかにするのだ。
ウォー・ゲームの結果、
日露戦争における日本軍の
問題点は、次の3つが
考えられるのだ
①ロシア旅順艦隊と
ウラジオストク巡洋艦隊を
撃沈できなかった場合、
満州軍への兵站支援が
できないばかりか、
バルチック艦隊来援時、
日本海軍は不利な戦いを
強いられること、
②満州軍は奉天以北において
ロシア軍と戦う場合は、
兵站支援が十分に実施できない
こと
(奉天あたりが兵站支援の限界か)、
③長期戦になれば国力が
持たないこと。
当然ながら、これらの
問題を解決する方策も
検討されたはずだが、
不確定要素が多く、完全な
解決策は見いだせなかった
はずなのだ。
例えば、①に関して、
開戦以前には、旅順港に
立て籠もるロシア旅順艦隊
を連合艦隊の攻撃では撃滅
できず、
陸軍(第三軍)により旅順
要塞を陸上から攻略する
事態になることは想定外
だったろう。
「各行動方針の比較」
では、複数の
「行動方針」を比較して、
その中から、務めて短期間
に確実に任務が達成でき、
戦費や死傷者などが最小と
なるような
「ベストの行動方針」
を選び出すことになって
いるが、参謀本部の頭脳
であった川上操六、
田村田村怡与造、
児玉源太郎などが脳漿を
絞っても正規軍
満州軍と連合艦隊
を運用してロシア軍を完全
に撃破し、ロシア皇帝を
降伏させることができる
「ベストの行動方針」
は見いだせなかったろう。
それもそのはず、そんな
行動方針はそもそも存在
しないからなのだ。
日露戦争においては、
最初(入口)の判断として
①「日露戦争を敢行する」と
②「日露戦争を回避する」と
いう2つの行動方針があった
はずなのだ。
しかし、一旦
「日露戦争の断行」を
決断すれば、前述の
「日露戦争における日本軍
の問題点①~③」を何とか
解決する
「戦い方・方策」を考え、
実行しなければならなかった
のだ。
このような思考の末に
残された唯一の
「戦い方・方策」
縷の望は、
「明石大佐による謀略・工作」
しかなかったというのが真相
ではなかろうか。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる