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小さな誠をこつこつと注ぐんじゃ

どうも村田です

松陰は武士道でいう

死に花を見事に咲かせた

わけなのだ。

数え年では30歳だったが、

満年齢では29歳だったのだ。

その後、高杉晋作は

「幕府という先生の敵を

討たずにおくものか」

と誓っているのだ。

晋作だけではないのだ。

松下村塾で学んだ数多くの

門人たちが、先生の敵を討つ

ために立ち上がるのだ。

そして、それらの人々も

また悲運のうちに散って

いくのだ。

「松下村塾の塾生は

最大限見積もって92名」

と申したが、最小限に

見積もれば43名という

説もあるのだ。

その43名のうち、悲劇的な

最期を遂げた人の数は

次の通りになるのだ。

割腹、切腹は6名、

陣没、戦で亡くなる1名、

討ち死に4名、

斬首、首を切られる1名、

獄死、獄中で死ぬ1名、

43名のうち13名が国事に奔走し、

非業の最期を遂げているのだ。

明治42年には伊藤博文が

暗殺されて、さらに、

プラス暗殺1名が加わるので、

要するに3割の門人が非業の

最期を遂げたということに

なるのだ。

維新の激動を生き抜いて、

明治維新政府の高官になった

人は、実はそれほど多く

ないのだ。

野村靖、山田顕義(あきよし)、

伊藤博文、山縣有朋、

品川弥二郎など、ごくわずか

なのだ。

そのような歴史を見ると、

松陰の魂はどうやら

武蔵の野辺にとどまる

というだけでは済まなかった

ようなのだ。

その魂は、門人たちの身に沿い、

門人たちの魂を次から次へと

燃え上がらせていって、

ついにわが国全体の古い

旧体制を焼き尽くすことに

よって浄化していく、

清めていったわけなのだ。

松陰は生前、門人たちに、

「たとえ私の肉体は死んで

しまおうとも、魂魄(こんぱく)

はこの世にとどまって、

おまえたちの身に沿うて、

必ず私の志を貫く」

と断言しているのだ。

その言葉の通り、松陰に

続いて門人たちも次々と

殉難していくのだ。

しかし、その無数の屍

(しかばね)の上に

夜明けの光は差し初め、

新しい明治という時代を

迎えるのだ。

そして、わが国は有色人種

では世界で初めての近代国家

を形成し、

やがて近代日本は大東亜戦争

で白人諸国の世界支配体制、

全世界を白人が支配している

この体制を突き崩し、

人種平等が当たり前という

今の世の中をつくり上げる、

それが大東亜戦争の後の

世界なのだ。

歴史を大局的に見れば、

松陰は明治維新という

大変革の幕を開けるため、

近代日本の幕を開けるため、

まずは自分の人生の幕を

あえて意図して閉じさせた

のではないかとさえ考えられる

のだ。

そのような天命を、天から

与えられた使命を、多分

ほかの誰よりも松陰自身が

自覚していたのではないか。

最後に重要なことだが

松陰はもちろん偉いけれど、

松陰の死後、もしも門人

たちが先生の死に恐れを

なして、ひるんで

立ち上がらなかったら、

歴史はどうなっていたか

ということなのだ。

もちろん明治維新は

起こらず、わが国は

白人諸国の植民地に

されていただろう。

もしも日本が植民地に

されていたら、松陰の偉業も、

それどころかわが国の存在

そのものも、世界史の荒波の

中に消え去っていただろう。

つまり、松陰を真に偉大な

存在にしたのは、門人たちの

奮闘であったということに

なるのだ。

松陰のみならず、門人たちも

紛れもない武士だったのであり、

そこが今の日本とは大きく

違うのだ。

戦後はそれら国難に殉じた

あまたの志士たちを、また

日清、日露、大東亜などの

戦いで散華された英霊たちを

ののしる愚か者が、学者にも

教師にもメディアにも満ちて

いるのだ。

しかし、志士や英霊たちを

無駄死ににするのもしないのも、

実は今を生きる私たち日本人

次第なのだ。

つまり、私たちがこれから

日本を取り戻すことができれば、

あまたの先人たちの死は

意味ある尊いものにもなるのだ。

私たちにそれができなければ、

先人たちの死は無駄なものにも

なるということなのだ。

従って、先人たちの死を

意味ある尊いものにするのも

しないのも、それは今を生きる

私たちの生き方次第ということ

になるわけなのだ。

今、わが国は内憂外患、

国の内外共に困難な難題を

いくつもいくつも抱えて

いるのだ。

しかし、それでも先人たちが

守ってきた大切な祖国日本を

私たちが守り抜く、

あるいは日本から失われた

大切なものを私たちが取り戻す、

そういうことができれば、

私たちは先人たちに

恥ずかしくない生き方をした

ということになるだろう。

そういう時が来ることを

信じつつ、最後に松陰が

処刑される半年ほど前、

安政6年10月11日の手紙の

一節に書いている和歌を読む

のだ

「皇神の誓いおきたる

国になれば 正しき道の

いかで絶ゆべき」

歌の意味は

「天照大御神

(あまてらすおおみかみ)が

永遠に続くとおっしゃった

皇室、

その皇室が統治される国日本、

日本とはそのような国なの

ですから、たとえわが国の

目の前には、

今さまざまな困難が

立ちふさがっていても、

正しい国の在り方が絶えて

しまうなどということが

どうしてあるでしょうか。」

「そういうことは絶対に

ありません。お互い今の

国の在り方に、

あるいは内外の情勢に一喜一憂

することは少なくないと思います。

私もそうです。しかし、

それはそれとして、

私たちはわが国の建国以来

の底力を信じるべきでしょう。

そして、いつかわが国が

わが国らしい国に戻る時が

必ず来るということも

信じたいと思います。

信じて、日々世のため

人のため、今私たちにできる

こと、

小さなことでもいい

ですから誠実に積み上げて

いきたいと思います。

小さな誠をこつこつと注ぐ、

そのことがいかに大切な

ことか。」

これも松陰がいつも

言っていたことなのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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