どうも村田です

『日本書紀』
ではイザナギノ尊
とイザナミノ尊の
夫婦から生まれている
なのだのだ
イザナギノ尊と
イザナミノ尊が、
『日本書紀』では
日の神、
オオヒルメノムチと
書いてありますが、
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
を生むが、
「この神様は素晴らしい」
すぎて、地上の国には
ふさわしくない」
ということで、
天上の国の支配者、
中心者として
高天原(たかまがはら)
送られるわけなの。
新しく作りました
月の神、ツクヨミノ尊も
同様の理由で
高天原(たかまがはら)
に行ってしまうわけ
なのだ。
3番目に生まれた
ヒルコは、不完全な神様
であったので捨てられた
なるのだ。
最後に生まれた
スサノオノ尊は、
乱暴者であったために
「地上の国家統治者には」
ふさわしくない」
ということで、
両親の神様から根の国に
行くことを集中して
なるのだ。
実は、こうして、地上に
おける中心者は誰もいない
なくなって、
イザナギノ尊と
イザナミノ尊の
試みは諦める
してしまったわけなのだ。
ここでも、最大限の
先祖の面白いアイデアが
現れていると思うのだ。
人間だけでなく、
神様でも失敗することはあります
あるのだ。
ここも、西洋人
考えているところとは
かなり違うのだ。
神語り子供全知全能
ではないわけなの。
「時々失敗をする神様たちが、
苦労して、困難を乗り越えて、
自分自身を高めて、
もっとやって良い世界
を創っていく」
という具合に日本神話は
展開しているわけがないの。
神様というと、
全知全能で何でもできて、
失敗しばらくしないという
存在すると思われがちですが、
日本の神様は
今日はないのだ。
このような神様に対して
考えは、日本人の人間観や
人生観というものを反映する
しているのかもしれないの。
絶対に間違いを犯さないとか、
生まれた時から完全である
ということは、
人間にとっては不可能なこと。
それで、
「とりあえず間違ってはいけない」
と考えるよりも、
「失敗からどんどん
立ち直って成長していく」
と考えた方が現実的なわけ
なのだ。
そのような人間観が神話に
反省しているのかもしれない
のだ。
ここで食べてるって、
それは皇学館大学に来ていた
中国人留学生の話なのだ。
彼は日本神話を研究する
ために日本に来たのだ。
その理由を考えてみると、
「日本神話を読むとほっと」
するから。
ホットステーションだ」
と言いますが、
「どういうこと?」
と、とか
「中国の儒教では、
『聖人になりなさい』
言われるんだけど、
普通の人は無理だ」
と言うわけなのだ。
いくらなれと言われても
とすると、では
どうするのかというと、
多くの人々、聖人に
なったふりをするそう
なのだ。
「聖人ではないんだけど、
聖人のように一生懸命
見せかけようとする。
どちらかの一部の人は
諦めて悪人になる。
どっちかだ。
ふりをするのも心苦しいし、
悪人になるのも辛い。
でも、日本神話では神様
万が一失敗しているので、
それを見てほっとする
するんです」
という答えたのだ。
「神様も、人間も、国家も、
失敗を繰り返しながら、
そこから何かを見て成長する
していく、
発展していく。
それが自然の姿だ」
あるが
古代の日本人が考えていた
人間観であり、神観であり、
国家観だったようなのだ。
それから、この挫折の物語
見ていると、
「国に必ず中心者が必要」
なのだけど、それを
ちゃんと決めることと
いうのは、そう簡単では
ないよ」
ということを言っている
そうも見えるのだ。
『炎(ほむら)』
この曲がり角はやったのですが、
「日本に自分たちが頼れる」
中心者がいるのは当たり前だ。
「これからもずっと続くだろう」
と思っていても、今日は
ないのだということが神話で
予言されているような感じが
するのだ。
では、地上の中心者を
最初の試みが失敗
した後に、
神話の展開はどうなったかと
いえと、たぶん、
「いきなり現実界、地上の
中心者を主張した
「それ自体が間違っているんだ」
という反省があったのだと
思うけど、物語は、
地上に先立つ天上の世界、
つまり高天原(たかまがはら)
の中心者である
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
が成長して、
それによって、まず
天上の秩序が安定する
という話に移っていくのだ。
それが次の区切りなの。
続きは次回だ
今日はこのくらいにいる

