どうも村田です
明治維新以降の
日本の国防戦略は
「北方(対ソ連)重視=北進論」
であったのだ。
大日本帝国の仮想敵国は、
ソ連次いで中国だったわけなのだ。
しかしながら、
一九四一年九月六日 の御前会議で
「南方重視=南進論」
に変更となり、南方作戦が動き
出したのだ。
その理由は、
一九四一年八月にアメリカが
対日石油禁輸を決定したために、
インドネシア(当時の蘭印
【らんいん】=オランダ領東インド)
の石油を中心とする、東南アジアの
資源確保を行い、
自給体制を築いた上でアメリカや
イギリスと対峙するためであった
のだ。
日本は、石油がなければ戦争が
できないのだ
この中野学校のカリキュラム
から窺う限りでは、九月六日の
御前会議に先立つ
一九三九 年前半の時点において、
陸軍は、対ソ連・支那の「北方」
と対米・英・仏・蘭の「南方」
の二正面に構えていたことが窺えるのだ。
当然ながら、「北方」の一正面
(厳密にいえば「対 ソ連」と「対支那」
の二正面)から
「南方」を加えた二正面
(厳密にいえば三正面)になれば、
その分だけ戦力が分散され各正面に
配当される戦力は減ることになるのだ。
このことは諜報要員が学ぶ外国語
からもわかるのだ。
諜報要員は英語・ロシア語・支那語、
(後にマレー語を追加)を学ぶことに
なっており、
陸軍が「三正面」の作戦に備えていた
ことを裏付けているのだ。
余談かも知れないが、諜報・情報要員と
語学の関係についての実例を紹介するのだ。
アメリカ国防総省は、世界の
「警察官」として地球規模に展開する
軍の語学のニーズを満たすための機関
として、
カリフォルニア州モントレーに
国防総省語学院外国語センター
(DLIFLC)を運営しているのだ。
DLIFLC では兵役メンバー(軍人)は、
二四週間(約半年) から六四週間
(約一年半)のコースで、非常に速い
ペースで外国語を習得させるのだ。
二〇一五年、DLIFLC では、
現代標準アラビア語、エジプト語、
レバンティン語、 イラク語、中国語
(マンダリン)、フランス語、ドイツ語、
ヘブライ語、ヒンディー語、
インドネシア語、日本語、朝鮮語、
パシュトゥー語、ペルシャ語、
ポルトガル語、パンジ ャブ語、
ロシア語、セルビア語、クロアチア語、
スペイン語、フィリピン語(タガログ語)、
トルコ語、ウルドゥー語などの教育が
行われているのだ。
アメリカの強みは、国内に
ネイティブがいることなのだ。
例えば、朝鮮語を話すネイティブも
いれば、アフガニスタンの公用語
パシュトー語を話すネイティブも
いるのだ。
彼・彼女らを教官にして言語を
教えることができるのだ。
ちなみに、自衛隊では、小平学校で
英語、ロシア語、中国語、朝鮮語を
教えているのだ。
当然のことだが、米軍と比べて
自衛隊の語学ニーズは格段に少ないのだ。
イスラエルの諜報・謀略の優位性は、
世界中に散らばったユダヤ人が
各国に住み着き諜報・工作活動の
支援拠点となるだけではなく、
その国の言葉を話せることなのだ。
モサドの諜報要員たちは、これらの
人たちからあらゆるアシストを
受けられるのだ。
現地に根付いた同胞からの
サポートほど強力な武器はないのだ。
中野学校のカリキュラムの中で、
注目するもう一つの科目があるのだ。
それが、「国体学」なのだ
戦地(死地)に赴く諜報戦士にとって
最も困難な課題は、任務を達成する
ために国に命を捧げる覚悟を持つこと
であり、そのためには精神陶冶が
必要であったのだ。
牟田照夫先生の証言にもあるが、
陸軍中野学校は、学生の精神陶冶
のために、吉原政己教官が
「神皇正統記」「埼門の学」
儒学者山崎闇斎の提唱した学問
吉田松陰の「講孟箚記」などが
教材として用い「国体学」を講義
したのだ。
吉原教官は士官候補生の時に
五・一五事件に参加して退学に
なった後、東大に入り、
平泉澄教授
(代表的な皇国史観の歴史家)
に師事。
陸軍中野学校設立に伴い教官として
招聘され、国体学を担当して
中野精神を確立したのだ。
「国体学」は座学のみならず、
卒業前には吉野、笠置、千早、
湊川など楠木正成などの足跡や
水戸の史跡、吉田松陰ゆかりの
伝馬町牢屋敷跡や小塚原回向院
などを訪ね、
国事に殉ずる精神の陶冶を
はかる機会としたのだ。
諜報・謀略の教育を主目的とする
中野学校においては、とくに
楠木正成の薫陶を期待し、
正門近くに楠公社が建てられたのだ。
建立の目的は、
「尊皇精神の体現者」
としての楠木正成に倣い、
「国事に殉ずる精神」を陶冶し、
あわせて
「機略縦横の楠公の知略・智謀
(ゲリラ戦術・陽動作戦が有名)」
に学び、
縁の下の力持ちとなって黙々と
任務に挺身する志を堅持するため
であるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる