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かっちりじゃないんじゃ

どうも村田です

伝統文化や技芸

はやはり重要だと

思うのだ。

そういったものを

通して、日本人の

正直さや細やかさ

というものがよく

出てくるのだ。

あと身体性で

一つの茶碗を持ったり、

書をやったり

文人の岡倉天心が

『茶の本』の中で、

「茶室にすべての

芸術が凝縮している」

といっているが、

ある種の狭い空間の

中に歴史が詰まって

いるということなのだ。

皇統についても

そういえるのだ。

その感覚を戦後の日本人

(とりわけ現代人)

はどんどん失っている

気がするのだ。

芸というのは奥が深い

ので、やはり自分が

謙虚になる必要が

あるし、

心を清らかに

しなければいけない

のだ。

茶道にしても華道に

してもそういうのは

見破られるのだ

北畠親房が指摘

するような

「徳を涵養する」

という要素が、

おそらく日本の芸道

の中にはあったと

思うのだ。

親房は公卿という

こともあって、

笙(しょう雅楽に

用いられる楽器)

が得意だったと

いわれているのだ。

彼は三十八歳になるまで

(まだ公卿の時代)には、

有職故実(古のしきたり)

に詳しかったり、

雅楽のトップだったり

したらしいのだ。

たしかに

『神皇正統記』

の書き方を見ても

そう思えるのだ。

親房はそういう背景

もあって、音楽は

大事だといっている

のだ。

一方で、古代ギリシア

の哲学者プラトンは

『国家』の中で

「音楽はダメだ」

といっていたのだ。

親房とプラトンの

意見は真逆なのだ。

プラトンは

「詩というのは

レトリックで人を惑わす、

イデーを曇らせるものだ」

といっているのだ。

イデー(idea)とは、

心や魂の「目」に

よって洞察される

物事の真の姿と

いったらよいだろうか。

西洋と日本における

国家観の違いが表れて

いるのだ

前にも出てきたが、

ホッブズという人が

国家のあり方について

こうに考えているのだ。

「放っておくと社会

は内乱が起きてしまう。

このままでは

生命や財産が安定

しないから、誰かが

『主権者』

というものをつくって、

この主権者に自分たち

の権利を譲渡し、権力

を与えて契約を結び、

その主権者がつくる

命令に従うべきだ」

ホッブズはこうした

「社会契約」の考え方、

要するに

自分たちと主権者との

間の契約と服従の関係

によって、

永遠の秩序ができる

と考えていたのだ。

だから主権者こそが

重要で、主権者を

つくり出す

ということが国家の

役割だと考えたのだ。

ここでいう主権者と

いうのは、昔は王様

だったのだが、

時代が経つにつれて

議会になったり国民に

なったりしてくるのだ。

これが西洋の国家観

ではないだろうか。

ところが日本人は

そのようには考えず、

自然状態(万人の

万人に対する闘争)

にいる中で、

みんなが徳を持つ

ことで私心を捨てて

いくというか、一歩

退くというやり方を

するのだ。

先に述べたが、

足利尊氏のように

欲をかくと部下も

荒れるから、

北条泰時のように

「地位や領土は

いりません」

と皆が一歩ずつ

「引き算」

することによって、

内乱が少し収まって

いくということなのだ。

上に立つものが乱れる

から下が乱れるのだ。

そこできちんと徳を

持った人物

(天皇であろうと

臣下であろうと)

が出てくることで

秩序が締まるのだ。

いまの日本でも

そうした側面が

あるのだ。

良し悪しは別として、

日本人のそういった

感覚は現代でも

変わってないのだ

ドイツの歴史学者

マイネッケが西欧型

の国民国家と、

そうではない日本の

ような「文化国家」

との違いを述べている

のだ。

日本の場合は、

一つの植物が広がって

繁茂しているような

状態というか、

西欧のように契約と

服従のような縦横で

かっちりと

固められた国家

ではないのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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