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失敗するんじゃ

どうも村田です

内閣が交代すべきだ

というのは誰が見ても

当然のことになるのだ。

その東條の後を継いだ、

小磯・米内連立内閣で

あるが、この連立内閣とて、

戦争の敗北という体制を

覆すような戦力の立て直し

を施す力があるはずも

なかったのだ。

この19年の10月に、

まず海軍航空隊に

特別攻撃隊という名の

自殺攻撃戦法が採用さる

のだ。

陸軍がすぐそれに

続いて特別攻撃隊を

編成するのだ。

この小磯國昭という人は、

朝鮮総督であったけれど、

「内閣を組織せい」

という命令を受けて直ちに

帰国した人であるが、

何かと言うことが

神がかり的なところがあり

あるいは非常に不思議な

大時代的なレトリックが

多くて、子ども心にも

「何か頼りにならない」と、

「言うことが大きすぎて、

頼りにならないな」と

記憶がはっきり残っている

のだ。

昭和20年が明けると、

長距離爆撃機のB29のみ

ならず、

アメリカ艦隊の艦載機が

もう日本列島の随所に

空襲を加えるようになる

のだ。

次いで3月10日に東京

下町の大空襲があり、

ご存知のような大変な

被害が生じるのだ。

そして、この同じ3月に

硫黄島が占領されるのだ。

アメリカ軍が沖縄に

上陸し、小磯内閣は

総辞職に追い込まれる

のだ。

硫黄島がアメリカのもの

になったということ自体が、

これはやはりサイパン島を

発する飛行機が早くに

途中でもって着陸する

新たな基地を得たという

ことで、

日本の空襲には彼らに

とって非常に有利な

ことになるのだ。

そして、小磯内閣の

総辞職の後、昭和20年

の4月7日、鈴木貫太郎

内閣が成立するのだ。

この鈴木内閣の成立は、

国民の誰の目にも、

これは終戦工作を図る

ための内閣であるなと

映り、

敗戦はもう時間の問題

だった、内閣の使命は

いかにうまく終・停戦に

持ち込むかにかかって

いるのだというふうに

見えたのだ。

その鈴木内閣が成立

するころには、もう

西園寺公爵はとっくに

亡くなっておるし、

西園寺がそうであった

意味での重臣というもの

の存在はなくなっている

のだ。

そこで、総理大臣経験者と、

それから枢密院議長、

内大臣くらいが、

かつての重臣に相当する

地位の政府の助言者に

なっていたのだ。

その重臣たちが、内心

では皆敗戦という形での

終戦を受け入れ、

期待しているのに対して、

重臣の1人である東條英機

だけが、この戦争を戦い

抜くための

軍の強化策というものを

説く立場にあったのだ。

それも彼の世界史的次元

での戦争観の不十分、

極言すれば知識のなさ、

幼稚、無教養が見てとれる

のであるけれど、それを

今さら責めるようなことを

言っても仕方がないと思うのだ。

鈴木内閣がポツダム宣言を

発表せしめるのにとにかく

成功して、

東郷茂徳外務大臣が

「これでよし」

と判断して、

ポツダム宣言受諾という

形での停戦を成就した、

このいきさつは重要だが、

東條氏の動静とは全く

離れた脈絡であるのだ

敗戦という、ついに到来

した状況のもとでの東條の

軌跡を追跡調査するのだ

ポツダム宣言の第10条に、

次のごとき文言があるのだ。

前後を省略してその文言

のみを抜き出してみると、

「吾等の俘虜(ふりょ)

を虐待せる者を含む一切の

戦争犯罪人に対しては

厳重なる処罰加へらるべし」

という一節があるのだ。

これは、捕虜虐待の行為を

主眼とする戦時国際法違反

の行為を指すものであり、

ポツダム宣言の受諾という

形で停戦にこぎつけた

日本側としてももちろん

了解済みの事項なのだ。

ただ、この了解の中には、

戦時国際法に何の規定もない、

戦争という手段で平和を

かく乱した罪、

それが戦争犯罪のうちで

あるといったような

了解は全く入ってないのだ。

ポツダム宣言の第10項に

いうところの捕虜虐待に

心当たりのある戦闘員、

軍属も含めました者に

とっては、この条項は

何か不気味なものに映って

いただろうと思うが、

東條大将のごとき、

日米戦争の枠内では

戦場に出たことがない、

捕虜虐待とは縁のない

位置で戦争に携わって

いた高位の軍人には

縁のない条項だという

ふうに思われたのだ。

ところが、9月2日、

停戦協定の調印から

間もない9月11日に、

GHQは戦争犯罪容疑者

39人の名前を挙げて、

東條大将がそれに入って

いるのだ。

そして、その日に

東條の逮捕を指令するのだ

そして米軍の憲兵が

世田谷区用賀の東條の

屋敷に現れ、東條を

連行しようとするのだ。

元一国の首相であった将軍に、

出頭命令の公文書を送付する

ならばともかく、

いきなり逮捕及び身柄の

拘束というのはあまりにも

礼儀を失したやり方なのだ。

その屈辱に驚愕

(きょうがく)した

東條は、

その場で拳銃自殺を

図ったのだが、弾が

心臓を外れたために

自殺には失敗するのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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