どうも村田です
創設直後の後方勤務要員養成所
(後の陸軍中野学校)では、
教育を開始するにあたり、
諜報要員のモデルを模索していた
のだ。
その経緯について畠山清行氏は
「秘録陸軍中野学校」で次の
ように述べているのだ。
〈『これだ、これだ』
教官連が思わず、歓声をあげた
記録が飛び出してきたのである。
明石元二郎大佐の『革命のしをり』だ。
(関係者は『革命のしをり』と呼んでいる
が、その題名は、
中野学校の 教材として謄写版刷り
にしたときに付けられたものと思える。
神田の書店でプリント刷りにし、
二千円から三千円で外人の
諜報研究家などに売られている
ものには『落花流水』の名が
つけられている)〉
畠山氏が指摘したとおり、
陸軍中野学校教育の原点になったのは、
「日露戦争における 明石工作」
であるわけだが、
その明石工作が生まれた背景を
見ていきたいのだ。
明治維新以降ロシア革命までは、
日本にとって仮想敵国はロシアであった
のだ。
世界最大の面積を占めるロシアの
地政学の特色は、国境に大河や山脈
などの大障害がないことであるのだ。
そのため、どの方向からでも外敵に
攻められる危険性があったのだ。
またロシアの極東には不凍港がないのだ。
そのためロシアは、際限なく領土を
広げていき、敵が攻めてきた時には、
広大な領土を バッファーゾーンとして
利用する戦略を採るのだ。
それがロシアの安全保障の基本戦略だった
のだ。
そういう理由からロシアは、欧州正面、
中東正面、中国正面、東アジア正面、
極東正面において飽くなき領土拡張に
邁進するのだ。
英国やポルトガル、スペインなど、
海に面した国は、大航海時代を迎え、
頑丈なキャラック船やキャラベル船が
建造されるようになり、
羅針盤がイスラムを介して伝わった
ことから外洋航海が可能になったのだ。
これらの国々は帆船によりアジアや
南北アメリカに進出し て、植民地を
拡大していったのだ。
一方、不凍港を持たないロシアは
海洋には進出できずに遅 れを取ったのだ。
焦ったロシアは鉄道技術の発達を利用し、
シベリア鉄道を敷設することにより、
ユーラシア大陸を東に向けて横断して、
極東・満州に領土・影響力を拡大することを
企図したのだ
ロシアが企画したシベリア鉄道の建設
(一八九一年に建設を開始)には、
極東進出・侵 略の野望が秘められて
いたのだ。
その目的・目標の地は満州、朝鮮半島
はおろか日本までも視野に入っていたのだ。
西欧諸国と同様に、ロシアにとっても
ジパングは魅力のある国であったのだ。
日本侵略を最終目標とするロシアは、
その前段として、朝鮮半島に異常な
興味を示していたのだ。
朝鮮半島をめぐる日ロの確執の様子は、
『閔妃【ミンビ】暗殺 朝鮮王朝末期の国 母』
(角田房子著、新潮文庫)に詳しいのだ。
大陸国家ロシアと海洋国家日本が李氏朝鮮・
朝鮮半島を巡って覇権争いをする様子が
克明に描かれているのだ。
朝鮮王朝は、日清戦争
(一八九四年七月二五日から
九五年四月一七日)
の結果の下関条約で清の宗主権が否定され、
正式に独立を確定させたのだ。
続いてロシアを中心とした三国干渉で
日本が遼東半島を清に返還すると、
朝鮮の政府内部にロシアと結んで
日本の勢力を排除しようとする
親露派が形成されたのだ。
その中心が閔妃(明成皇后、ミンビ)
であったのだ。
ロシアの朝鮮半島進出は、日本に
とっては死活的な脅威となるのだ。
ロシアが朝鮮半島を支配下に置けば、
日本とっては、匕首【あいくち】
つばのない短刀
を脇腹に突きつ けられるような
恰好になるのだ。
もし朝鮮半島がロシアの手に
落ちたときには、日本の安全障は
「万事休す」の状態になる
という認識を当時の参謀本部などは
持っていたのだ。
要するに、日本の安全保障にとっての
根本課題は、朝鮮半島経由のロシアの
脅威に対処することであったのだ。
朝鮮半島は、我が国をロシアの脅威から
防衛するうえで「最後の砦」だった
のであるのだ。
このような認識の下、閔妃の動きを
危惧する日本の三浦梧楼公使は、
一八九五年一〇月、
公使館員等を王宮に侵入させ、
閔妃らを殺害し、死体を焼き払った
(乙未事変ともいう)。
その後、朝鮮半島と満州の権益を
めぐる争いが原因となって引き起こされ
日露戦争
(一九〇四年二月 から〇五年九月)
に勝利した日本は一九一〇年八月二九日
に韓国を併合したのだ。
一九一八年のシベリア出兵時には、
シベリア地域を日本の支配圏に
収めようと企図し、
白系ロシア
(ロシア革命で、皇帝側に付いていた
三〇万人以上のロシア人)と
コサック
(ウクライナや南ロシアに存在した
騎馬兵)による「緩衝国家」の建設を
目指していたのだ。
もちろん、この野望は実現
できなかったのだ。
日本は、さらには満州に日本の
バッファーゾーンを拡張する
ことを企図したのだ。
それが実現されたのが、
一九三二年の満州国の建国であるのだ。
さらに、満州国建国後には、
対ソ防衛の観点から「河豚計画」
までも練られていたのだ。
「河豚計画」とは、
一九三〇年代に日本で進められた、
ユダヤ難民の移住計画であるのだ。
一九三 四年に鮎川義介
(日産コンツェルン創始者)が
提唱した計画に始まるとされ、
一九三八年の五相会議で政府の
方針として定まったのだ。
実務面では、安江仙弘陸軍大佐
(陸士二一期) や
犬塚惟重海軍大佐
(海兵三九期)らが主導したのだ。
ヨーロッパでの迫害から逃れた
ユダヤ人を満州国に招き入れ、
自治区を建設する計画であったが、
ユダヤ人迫害を推進するドイ ツの
ナチ党との友好を深めるにつれて
形骸化し、日独伊三国軍事同盟の
締結や日独ともに対外戦争を開始
したことによって実現性が無くなり
頓挫したのだ。
いずれのプランもソ連の脅威に
対して大陸正面にバッファーゾーンを
拡大することであったのだ。
このことが一貫して日本の
安全保障政策であったのだ。
このような経緯で、帝国陸軍が
諜報活動をする動機・必要性は、
ロシアの極東進出に対抗することに
その淵源があるのは明らかなのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる