どうも村田です

次にどんなものが見えて
くるのか、家康について
探っていきたいと思った
わけなのだ。
『家忠日記』
という本を紹介するが、
翻刻してあるのだ。
6月は30日まであるという
大の月、 3日の日で
だから、本能寺の変が2日の
早朝にあったのだ。
3日の日、これは三河なのだ。
「雨降、京都酒左衛門尉所より、
家康御下候者」、
家康が下知したことは何か
というと、びっくりしたのだ。
「西国へ御陣可有之由申来候
(ごじんこれあるべきのよしもう
しきたりそうろう)」
と書いてあるのだ。
「『西国へ出兵するぞ』と
家康から申しきたり」
ということなのだ。
「そんなに人数も連れてきていない。
だからいったん戻って、おそらく
信長から俺も西国に出兵するから、
おまえも兵を出せと言われたのでは
なかろうかな」
と勝手に思っているのだ。
つまり、類推しかしようがないのだ。
「西国へ御陣可 有之由申来候
(ごじんこれあるべきのよしもう
しきたりそうろう)」、
そう言った酒井忠次から松平家忠の
所に伝令が来たのだ。
その時に、
「背中に差す、さし物はもう畿内の
方は進んでいて、大きい旗はないぞ」
と言っているのだ。
「大なるはたヤミ候て」、
小さい旗に変わっていると、
挿絵付きで送ってきているのだ。
「あまり大きいのを持って
行かなくてもいいぞ。小さくせよ。
これがはやりだ」
ということだろう。
こんなものまで来ている
ということで、
「一体何なんだろう。西国へ出兵
する命 令が出ていた。この意味が
私には分からない」と思うのだ。
だから、これはまた研究者の
皆さんも、詳しく調べてお見えに
なる皆さんも、
ここでどうも信長が家康に
「西国へ出兵せよ。一緒に行こうぜ」
ということを言ったのか、
それとも、家康が何らかのことで、
「軍備の準備をしておけ」
ということを言いたかったのか、
どちらかなのだ。
これも少し頭に入れて
もらいたい。
それから、どういうことを意味する
のか、その続きなのだ。
3日、夜になって
「酉刻ニ、京都にて 上様ニ
明知日向守、小田七兵衛別心にて、
御生かい候由、大野より申来候」。
2日の朝に死んでいるのだが、
3日には知多、大野で
今のセントレアがある所だが、
1日であそこまで使いが来て、
「京都で信長が殺された」
という連絡が来たのだ。
読んだ時に「早いな」
と思ったのだ。
1日で京都からウマを飛ばして
来たのだ。
もっと驚くのは、4日で
次の日の記録に、 最初は
「信長父子の儀に
ついては黙っておれ」
というかん口令が出たのだ。
「かん口令が出ているよ」
ということが書いてあるのだ。
その次に驚いたのは、
「岡崎江越候」と書いてあるのだ。
「家康者堺ニ御座候由候」、
家康は堺にいるようだと
いうことなのだ。
その次、「岡崎江越候」、
そこから岡崎へ向かった、
「岡崎に来るぞ」ということ
なのだ。
「家康いか、伊勢地を御のき候て」、
伊勢地を通り過ぎて、
「大濱へ御あかり候而」
と書いてあるのだ。
大濱というのは、碧南で
すぐそこなのだ。
4日には、もう家康は伊勢地、
つまりその前は伊賀だから、
いわゆる伊賀越えを済ましている
ということなのだ。
2日に本能寺の変があって、
4日にはもう大濱に上がって
いるのだ。
そして、「迎えに来い」
と書いてあるのだ。
つまり、これは伊賀越えを
二泊三日でやったことになる
のだ。
全長はどのくらいあるかというと、
190キロで、当時は歩きなのだ。
190キロの距離を 二泊三日で
というのは、絶対に無理なのだ。
速歩で1日に30キロ、ないしは
40キロというのは、東海道で
宿場町を造った基準なのだ。
速歩で1日に30~40キロ、しかも
30人の団体なのだ。
駆け足で走っても、ものすごい
勢いなのだ
秀吉は姫路から大阪まで大返し
をするが山崎の合戦の所まで
なのだ。
あれは190キロあるのだ。
7日で大返しで、みんなびっくり
したのだ。
「どうやって7日で帰ってくるんだ」
ということだが、実はこれはあまり
知られていないのだが、
家康以下の連中は190キロを
二泊三日で踏破してしまっている
のだ。
これは面白かったのだ。
そして、 伊賀越えを二泊三日で
実行したのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

