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著しいんじゃ

どうも村田です

米ソ冷戦の兆しをいち早く

予見した抜け目のない

ゲーレンは、

対ソ諜報網とソ連情報を

渇望するアメリカに、それを

提供する見返りとして、

ナチス党政権下のドイツ軍

諜報機関(アプヴェーア)のほか、

国家保安本部

(ドイツ本国およびドイツ占領地

の敵性分子を諜報・摘発・排除

する政治警察機構の司令塔)等

の諜報要員の戦争犯罪容疑を

免責させ、再び彼らを活用する

諜報機関

「ゲーレン機関」

の設立をアメリカに認めさせた

のだ。

「ゲーレン機関」を構成する

のはナチス政権以来の生え抜きの

諜報要員であるのだ。

こうして、ヒットラー政権下の

情報機関・要員・資産は、

ゲーレンの才覚で

「ゲーレン機関」として生き残った

のだ。

「ゲーレン機関」は、その後、

西ドイツの連邦情報局(BND)

に姿を変え、かけがえのない

ドイツ国防部の情報資産

(要員とノウハウなど)

が戦後も命脈を保つことが

できたのだ。

「ゲーレン機関」は、米ソ冷戦

対立の最前線の諜報機関として

米国などから重宝・厚遇され、

冷戦下、NATOの主要な

情報機関として成果を挙げたのだ。

ゲーレンの対米工作を見て感心する

のは、その先見洞察力、深謀遠慮、

強かな交渉・実行力なのだ。

旧日本軍の中にもこのような

凄腕の将軍・提督・情報将校が

いたなら、我が国の戦後の軌跡は

もっとましなものになっていた

ことだろう。

軍人が戦うのは戦時・戦場だけ

ではなく、敗戦後も戦いが

待っているのだ

もう一つ思うことは、

「情報の力=価値」

は恐るべきものであるということ

なのだ。

敗戦国のドイツの軍人がその保有

するソ連軍情報を活用することに

より戦勝国のアメリカ軍・政府を

意のままに動かせたのだ。

それにつけても、陸軍中野学校が

もう少し早く創設され、終戦の

修羅場に中野学校出身の大佐・将軍

が誕生していれば、

ゲーレンに比肩できる働きをする

英傑が現れたに違いないと思うのだ

陸軍中野学校の精神や諜報・謀略

などの遺産を自衛隊に伝えた人物を

二人紹介するのだ。

正確にいえば、この二人は

陸軍中野卒業生ではなく、同校で

教育に当たり、

大東亜戦争中に中野学校出身者と

諜報活動・遊撃戦を共に実施した

人物であるのだ。

この二人の他にも多数の中野

出身者が自衛隊に入隊しその

精神やノウハウを伝えたのは

事実であるのだ。

一人目は、

F機関長としてマレー作戦や

ビルマ作戦などで活躍し、

インド国民軍の創設・発展に

尽力した藤原岩市であるのだ

(帝国陸軍における最終

階級は陸軍中佐)。

戦後、藤原は英軍当局から

インドに召喚され、ついで

シンガポールのチャンギーの

刑務所、

さらにはマラヤ連邦の

クアラルンプールにおいて

厳しい尋問を受けたのだ。

その一方で、尋問官が藤原の

功績を高く評価していたのは

以前に触れた通りであるのだ。

一九四七年六月、日本に戻った

藤原は復員局の戦史部に在籍した後、

公職追放を経て、一九五五年一〇月、

陸上自衛隊に入隊したのだ。

自ら志願して陸上自衛隊調査学校

(小平駐屯地)の二代目校長

(一九五六年八月から六〇年二月まで)

に就任し、

自衛隊情報要員の育成・強化に努めた

のだ。

藤原は、陸軍中野学校の教官を

務めていたことはあるが、本人は

卒業生ではないのだ。

しかし、F機関の機関長として、

多くの中野学校出身者の部下を

抱えるなど陸軍中野学校とは深い

関わりがあるのだ。

マレー作戦やビルマ作戦での

諜報・工作で活躍した中野卒業生

たちとともに働いて、

多くの教訓・示唆を得たのでは

ないかと推測するのだ。

それらを通じて得た知見を

陸上自衛隊調査学校の教育に

反映させ、後進の育成に貢献

した功績は著しいのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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