どうも村田です

次に
「政界の中枢部に位置を
占めた時の東條が対決
しなければならなかった
各種の試練」なのだ。
昭和15年の7月半ばに、
近衛文麿に第2回の組閣の
勅命が下るのだ。
近衛はお引き受け
するのだ。
陸軍、海軍に大臣候補者
の推薦を依頼するわけだが、
かつて陸軍は第1次
近衛内閣の陸軍次官を務めて、
その後
ちょうど近衛が組閣する
時には新しく設けられた
陸軍航空総監部という所で
総監を務めていた
東條英機を推薦するのだ。
海軍は吉田善吾の
海軍大臣の留任という
ことで、吉田を推薦
するのだ。
外相は近衛文麿自身が
松岡洋右を選んで据え
るのだ。
これから1年後、つまり
昭和16年の夏には、松岡の
アメリカに対する対米
強硬外交、
非常に強気の外交
それが近衛の大きな悩みの
種になるわけだが、
この時はそんなことは
分からないのだ。
むしろ松岡という程の
人物ならば、陸軍の
支那事変拡大派を抑える
だけの器量と度胸がある
のではないかと期待した
からなのだ。
昭和15年7月19日に、
近衛は荻窪の外ということで
「荻外荘」と呼んでいた
屋敷に、
3人の重要な閣僚の候補を
呼んで懇談会を開くのだ。
東條は満州に出張中でしたが、
急きょ呼び返されてこれに
加わるのだ。
そして、東條、近衛、
松岡、吉田の4人が
荻外荘での、これは実に
3時間に及ぶ長い懇談
だったそうだが、この
写真が残っており、
いろいろな所で目にする
ことができると思うけれど、
かなり深い感慨に誘われる
わけなのだ。
つまり東條に関して言うと、
石原莞爾(かんじ)からは、
「あの上等兵が」と軽く
見られて、
あからさまにバカに
されていた東條だが、
「その人がついに
日本帝国の国政を
動かす重大な任務に
就くことになったのか」
という感慨なのだ。
不思議な運命だなと
思うわけなのだ。
それから、松岡に
関してもほぼ同じで
あるのだ。
日本帝国の運命を左右
する鍵を手にした男が、
この松岡だったわけなのだ。
「その帝国を左右する鍵は、
松岡本人が目指したのとは
反対の方向に回転してしまった」
とでも言えばよろしいか。
後にそれがどういう
ことか書くのだ。
この荻窪会談は、秘書が
同席して記録を取る
というような公式の会談
ではない、
どこまでも近衛が参考
までに意見を伺いたい
として設けました私的な
懇談会であったのだ。
しかし、実は以後、
日本帝国が踏み行うべき
重要な国策の基本線は
ここですでに話題となって、
やがて政策に実践される
ことになるわけなのだ。
元来、第2次近衛内閣に
とっての最大の課題が
支那事変の収拾なのだ。
その目的のために国務と
統帥の緊密な統合が必要
となるのだ。
そのために国政の刷新が
要請されて、対英米両国
との外交の充実が重要と
なる、
そして国防力の強化も
もちろん必要となるのだ。
これらがここで話し
合われた今後の国策の
要諦なのだ。
近衛内閣が掲げた国策の
要綱は、すべてもっとも
であるのだ。
理念として間違った
ところはないのだ。
しかし、たとえ正しい
国策であるとしても、
それを実践に移した場合、
思わぬ手違いが生ずる
ことはあるし、ことに
それが対外行動であれば、
すべて相手のあることで
あるから、手違いに
すぎないということが
相手の誤解によって
当方の悪意によるもの
であると誤解される
こともあるのだ。
例えば、イギリスの
蒋介石支援ルートを
断つために北部仏印への
陸軍の進駐が必要だった
という国策だが、その
場合にも、言ってみれば
誤解と申すか、
相手に理解してもらえない
ということが起こるのだ。
つまり、アジアに新しい
秩序を起こそうという
日本の理想真意が、
外の世界から見れば
その通りに理解される
はずがないのであり、
アメリカから見れば、
それは単に日本が軍隊を
用いて南方への侵略を
開始したとしか見えないのだ。
北部仏印への進駐と
同じ時期に日独伊三国の
軍事同盟が成立するわけだが、
この日独同盟がアメリカに
与えた悪感情というのは
大変なものなのだ。
日本はドイツとの同盟を
非常に力に思っていたのだが、
実はそれがアメリカに
与えたのは悪影響でしか
なかったということなのだ。
この日独同盟を成立させた
立役者が松岡なのだ。
松岡はアメリカで長い間
苦労して生活した経験に
強く支配されており、
「米国人の心理は自分が
よく知っている」
という自信を持っていたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

