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おかしいんじゃ

どうも村田です

韓国人は日本をバカに

して、「セコハン文明だ」

と言うのだ

要するに

「日本は何でも模倣する文明だ」

と言うのだ

オリジナル論のことで

これは実にバカげていて、

では西洋文明はどうなのだ

ということなのだ

西洋文明は数式も

アルファベットも

オリジナルではなく、

西アジアの産物なのだ

文明とはてへんに番と書く

伝播であり需要であり

融合であり、そして

その中でのcreation

(クリエーション)

なのだ

韓国にはそれが文明だと

全然分からないのだ

相手にしても仕方がないと

思うのだ

そして、今韓国や中国の話で、

日本がこういうものを背中に

背負っているということは

もう離脱できるということで、

いいことなのだ

しかし、日本は西洋から

離脱してしまったら

まずいのではないかと

思うのだ

アメリカというものが

出てきたが、西洋から

離脱するのはまずいのだ

結局これは日本の律令体系で、

中国のものをまねした結果

なのだ

こちらは唐律といわれる

唐の律令なのだ

左をまねして右側ができる

のだが、単なる模倣とは

言えない極めて独自な

中央官制の仕組みなのだ

だから、ここ辺りから

はっきりと

「まねをしている

のではないですよ」

ということなのだ

日本の官僚制度は、唐と

決定的に異なる点が2官

あるのだ

太政官と神祇官なのだ

この太政官と神祇官は、

唐の組織では3者なのだ

門下省、尚書省、中書省

というこの3つの省が

太政官の役割を果たして

いるのを、

日本の場合は1人で統一

しているわけなのだ

日本の太政官は3つの

権限を合わせ持つ強力な

ポストで、

しかも天皇の権力を制約

することになっているのだ

養老律令に

「太政大臣に一人、

右一人に師範たり」

とあり

「右一人」とは天皇を

指しているのだ

民主党の師範であり、

先生であるのだ

天皇の師範でさえある

という意味なのだ

だから、最初は皇太子や

聖徳太子のような人しか

太政官にはなれなかった

のだが、

平安朝になって藤原義房が

初めてなってから、

藤原家が代々その太政官の

ポストを持つようになり、

やがてそこに平清盛が

居座るという構造が、

要は周知の通り歴史の

教科書に書いてある通りの

動きが起こるわけなのだ

それを相国といい

清盛のことを入道相国と

言ったと思うのだ

入道相国とよく

言われていたのだ

『源平盛衰記』などにおいて

平清盛が入道相国と書かれて

いて、天皇の権力を制約する

のみならず、摂関政治への

道を開いたのだ

しかも左大臣、右大臣、

大納言などのポストは

いずれも近畿地方のことを

指す畿内の有力な氏の代表

から選ばれることになって

いるから、

当然知縁血縁とつながりが

あって、抽象的なやり方とは

違って、

有力な氏族の代表がそれに

選ばれるようになってくるのだ

そして、唐の律令の

科拳制度は採用されないのだ

官僚の出身はみな血縁的な

氏族社会の伝統に従っており、

中国のような乾いた個人主義と

絶対王権との組み合わせ

からなる構造とは全く異なって、

世襲制の身分意識がこれを

決めてしまうというふうに

日本の場合にはなるのだ

だから、日本の場合には

まさに郡県制度は不可能

だということなのだ

これを持って古代意識の問題

を終わりにしたいのだ

このような唐律に対する

日本の律令のあり方を、

日本古代史学者の人々は

「未開の日本」という

言い方をして、とにかく

ネガティブに言うのだ

こちらが立派でこちらの方に

抽象的にいかないから、

このようなふうに日本は

氏族社会に従ってしまうから、

「未開の日本、野蛮な日本」

と言うのだ

そのために、あまり日本と

唐の違いを言わないように

しているのだ

そして、いったらば

「唐から学んだ」という

言い方を優先するのだ

誰が読んでみても、本当に

おかしいのだ

もちろんたまにはその違いを

言う学者もいるのだけど、

発達段階の違いや文明の

落差を言い立てるのだ

そのようなおかしな話は

ないのだ

日本は抽象的で理念的な

古代国家の文民官僚独裁

構造を横目に見て、

しかしそれに影響はされて

後追い国家にはなったけれど、

縄文弥生を含む1万数千年の

森林と岩清水の文化伝統に

誘われて、

無言のうちに受け入れる

ものと受け入れられない

ものと区別し、そして

選択したのだ

そのことのうちに日本と

中国のその後の大きな展開の

違いを示す原型と言っていい

のではないかと思うのだ

スタートの時点から

はっきりと違いは現れて

いるのであるのだ

それが縄文弥生の違いで

そのために太政官と神祇官の

2人が置かれているのでは

ないだろうか。

それもその違いで

なぜならば、森林と岩清水の

文化風土というのは、

神祇官というのは神社の政事が

すべての政治であるのだ

そこをまた日本の古代史学者は、

「このように神祇官を重視

する日本の律令は天皇を包む

宗教的タブーがいかに強いか。

天皇は原始性にとどまる」

などといった、社会科学的な

表現を用いて揶揄する口調で

悪く言うのだ

こういうのはおかしいのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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