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次に行くんじゃ

どうも村田です

「語り部」

という話が出たが、

たまたま昭和36年ぐらい

の司馬遼太郎が書いた

エッセイの中に出てくる

のだが、

司馬遼太郎が大阪の

産経新聞本社に入った

直後だと思うけれど、

上司に誘われて酒場に

行って2人で飲み交わした

そうなのだ。

その中で上司が少し

酔っぱらってきたのか、

真剣な顔になって、

「実は自分は出雲の国の

大国主命

(おおくにぬしのみこと)

側の語り部なんだ」

と言ったのだ。

司馬遼太郎はびっくり

したわけなのだ。

いろいろ詳しい話を聞くと、

「代々相伝で、息子、

息子に伝えてきて今に

至っている。

それで今でも夜中に

起きることがあるのだ。

それは出雲の国が

大和朝廷にやられた

ということで、

その悔しいという気持ち

で夜が眠れないという

ことがある」

という話を聞くわけで、

司馬遼太郎がびっくり

するわけなのだ。

だから、語り部の存在

というのをもう少し研究

してもらいたいなと思う

のは、

平安時代前期まで

大和朝廷にも語り部が

いたのだ。

『日本書記』だか

『日本皇紀』だかにも

出てくる朝廷の儀式の

時に語り部が出てくる

というのだ。

だから、

『日本書紀』

も当然のことながら、

大和朝廷が抱えていた

語り部が代々、それも

1人ではなくて相当数いた

のではないかと思うのだ。

語り部だから、個人の

ではないのだ。

雄略天皇の宋への

遣使も2回出てきたけれど、

年代が少しずれている

のだが、当時全く暦が

なかった、

年代も分からない時代に、

語り部が何を基準にして

年代を数えていたかというと、

大鷦鷯尊

(おおさざきのみこと)

「天の下をしろしめす御時」

ということで、代々この

天皇の都と天皇の名前で

どうも区切って、

教区の柱にしていった、

壁にしていったのでは

ないかと思うのだ。

語り部の存在というのを、

ただ稗田阿礼というだけ

ではなくて、

もう少し勉強して

もらいたいなと思って

いるのだ。

次はは東條英機大将に

ついての話を書くのだ、

話は4つの部分に分かれて、

第1部で東條英機という人物、

主に生まれとか家系、略歴

なのだ。

そして陸軍大臣になるまで

というのを第1部とし

それから、第2部が政界の

中枢部に位置を占めた

東條さんに迫る

いろいろな試練とでも

申しすべきものがあり、

それについてなのだ。

第3部は東條英機さんの

苦境というか、主に

大東亜戦争に突入して

からの話だが、

運命の転変といったところ

を見ていくのだ。

そして最後に、結びの

第4部として、

東京裁判法廷における

東條英機の被告としての

言論戦とでもいうか、

それについてかくのだ。

まず第1部の東條英機

という人物の生まれとか

家系、略歴なのだ。

陸軍大臣となるまでの

経歴なのだ。

この人は明治17年の

12月30日、東京の青山

で生まれているのだ。

お父さまは南部藩の藩士

の東條英教(ひでのり)

というのだが、

音読みにすれば

「えいきょう」なのだ。

この英教(えいきょう)

さんは盛岡生まれで

あったが、

明治6年に16歳で東京に

出て、官費の学校である

教導団という、

これは下士官養成所なのだが、

そこに入り、軍人になること

を志すのだ。

明治9年にそこを卒業して、

熊本鎮台の第14連隊の軍曹

となって小倉に配属される

のだ。

その時の連隊長が

乃木希典(まれすけ)将軍

であったのだ。

もちろんまだ若い時で

翌年西南戦争、明治10年の

有名な戦争であるが、

それが起こり、乃木さん

配下のいち下士官として

出征するのだが、

どのような戦闘に参加した

のかは明らかではないのだ。

西南戦争が終わった翌年、

明治11年になるが、20歳で

少尉になり、

東京勤務を命ぜられるのだ。

そこで結婚して東京で家庭を

持つようになるのだ。

そして明治17年に

東條英機が生まれて

いるのだ。

この英機さんは3人目の

男子であったが上の2人が

夭折(ようせつ)したために、

東條英機が長男として

育っているのだ。

父英教(えいきょう)の

意向だと思うが、

英機は16歳で東京の

陸軍幼年学校に入学して

いるのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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