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舐めきってたんじゃ

どうも村田です

福島は、シベリア鉄道

建設について、実地調査を

する必要性を痛感したのだ。

一八九一年、自らが志願して、

騎馬によるユーラシア大陸

横断の計画を参謀本部に申請

したのだ。

同年同月、アレクサンドル

3世はシベリア鉄道の建設を

宣言したのだ。

それから間もなく、ロシア政府

から日本政府に、ウラジオストク

から西に向けて開始するシベリア

鉄道の起工式に皇太子ニコライを

派遣するので、

そのついでに日本を訪問させたい、

という通報があったのだ。

これは、厚かましくも日本に

対する恫喝であり、心ある

日本人は激高したのだ。

案の定、一八九一年五月一一日、

訪日したニコライが、大津町

(現大津市)で警備にあたって

いた警察官・津田三蔵に突然

斬りつけられ負傷するという事件

(大津事件)が起きたのだ。

一時は日露開戦かと日本中に

激震が走ったのだ。

福島が申請した騎馬による

ユーラシア大陸横断(現地情報偵察)

の計画が、参謀本部に認可された

のは、その事件の後だったのだ。

不思議なことにロシアは福島の

大陸横断計画を拒絶しなかったのだ。

日本を舐め切っていたのだ。

超大国のロシアは日本を脅威など

とは見なさず、むしろ

「福島にロシアの東方進出の

意思と能力を見せつけて、

日本を脅してやろう」

と考えたのではないだろうか。

福島は行程一万四〇〇〇キロ

メートルのユーラシア大陸

横断の騎馬偵察に挑戦する

ことになったのだ。

騎馬三頭を引き連れての

旅だったのだ。

三匹の馬を交代で使い

ながら福島本人と荷物を

運ばなければ、持たない

からであるのだ。

一八九二年二月一一日(紀元節)

にベルリンを出発した福島

(出発時は少佐で、

旅の途中で中佐に昇任)は、

三日目には旧ポーランド領に

入ったのだ。

旧ポーランドは、

一七七二年、一七九三年、

一七九五年の三度にわたって

ドイツ(プロイセン)、

ロシア、オーストリアに

よって分割されたのだ

(ポーランド分割)

末に消滅し、一二三年間に

わたり他国の支配下ないし

影響下に置かれたのだ。

福島は、ポーランドの首都

ワルシャワを経て、二月の

後半にはリトアニア、ラトビア、

エストニアのバルト三国を

通過したのだ。

これらの国々も、かつては

独立国として繁栄していたが、

福島が通過した当時は

ロシア領になっていたのだ。

人々はロシアの弾圧に

耐えながらも、地下で

独立運動を続けていたのだ。

福島はこの実情を見て、

「日露間に戦端が開かれたら、

これらの独立革命運動を支援・

扇動して、帝政ロシアを西

(背後)から攪乱する手

(工作)もあるな」

と考えたという。

この発想は、期せずして

田中義一と同じであり、後に

日露戦争において

明石元二郎大佐が

このアイディア(撹乱工作)

を実行に移し、勝利に大きく

貢献したのだ

三月二四日、福島はロシア

の首都サンクトペテルブルク

に入ったのだ。

四二日間で一八五〇キロ、

日本で言えば鹿児島から

仙台までの距離を踏破した

ことになるのだ。

ロシア側は福島の

サンクトペテルブルク到着に

強い関心を持っていたようで、

福島は騎兵将校団に出迎えられ、

騎兵学校の貴賓室に案内されて

賓客として扱われたのだ。

ユーラシア大陸の単騎横断

という福島の壮大な企図に

敬意を表すると同時に、

ロシアの極東進出計画が

諜報されるのではないか

という猜疑心があったのは

確かであろう。

福島はここで半月ほど

過ごして情報収集に当たり、

なんと、ロシア陸軍の総兵力、

編成についての情報を手に

入れたのだ。

ロシアの兵力は日本の

約一四倍という規模であった

のだ。

これほど短期間にロシア陸軍

に関する情報を把握できたのは、

ロシア側の「情報戦」に基づく

意図的なリークだった可能性も

あるのだ。

ロシアは

「ロシア陸軍は日本陸軍に

比べ圧倒的な戦力があるぞ。

俺たちに対抗できると

思うなよ」という、

一種の日本に対する脅迫として、

福島に情報を与えたのでは

ないか。

福島は、三月三〇日に皇帝の

アレクサンドル三世への拝謁

を許されたのだ。

駐在武官・陸軍少佐の身分で

皇帝に拝謁するのは異例なのだ。

皇帝は福島のユーラシア横断に

非常な興味を抱いていたのだろう。

とはいえ、大津事件の余波も

残っており、福島にとっては

気骨が折れる拝謁だったに

違いないのだ。

福島は四月九日に

サンクトペテルブルクを出発し、

七二〇キロメートルを一六日間

で踏破して、

四月二三日にモスクワに到着

モスクワでは、シベリア鉄道

建設に関する情報を集めたのだ。

その結果、東西両端から

建設工事を始めることや

当時の未完成線路が

約七〇〇〇キロメートルで

あることが判明したのだ。

福島は、それまでの工事速度から

推計して、一〇年後の

一九〇四年には完成するだろう

と予測したのだ。

この福島の予測は見事に

的中しており、日露戦争開戦

(一九〇四年二月八日)

の日から約七カ月後の

九月二五日に全区間が完成・

開通したのだ。

五月六日にモスクワを出発し、

ウラル山脈を越えて、

シベリア(ウラル山脈分水嶺

以東の北アジア地域)に

入ったのだ。

帝政ロシアはシベリア開発の

ために多くの労働力を必要とし、

犯罪者や政治犯を多いときには

年間二〇〇万人も送り込んでいた

のだ。

貧しく不衛生なシベリアでは

コレラが流行しており、福島が

通過する町々では広場に死体の

山が築かれ、

「死の町」のような静けさに

覆われていたのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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