どうも村田です
成績優秀な人には
恩賜の軍刀を頂けた
のだ
以後、入校者は増えていき、
平時には大体60人が入校
したのだ。
これは大体陸士同期生の
1割で
陸大受験は陸士生徒隊、
士官候補生隊の卒業者と、
少尉候補者の出身者にも
受験資格があったが、
少尉候補者出身者が合格した
という記録はないのだ
おそらく所属長の推薦が
得られなかったのだと
思うのだ
これも一種のある意味では
エリート差別かもしれないのだ
陸大出身者は卒業と同時に
陸大記章を付けるのだ
右の腹の少し上、胸の少し
下のところに付けるのだ
この陸大記章が江戸時代の
通貨である天保銭に似て
いるというところから、
陸大出身者のことを
「天保銭組」と言ったのだ
陸大を出ていないという者を、
天保銭ではないという意味で
「無天」あるいは「無天組」
と言ったのだ
この陸大記章は昭和11年の
二・二六事件の後に廃止
されるのだ
陸大出身者は無天組よりも
出世が早く、平時は陸大を
出ていないとまず間違いなく
少佐か良くて中佐止まりだが、
陸大を出ているものは間違い
なく大佐になるし、多くは
将官になったのだ
昭和12年に支那事変が起こり、
昭和16 年には大東亜戦争に
突入し、軍隊は大幅に増員
されたのだ。
その結果、将官、佐官、
尉官が絶対的に不足すると、
無天組からも大佐の連隊長、
少将の旅団長、中将の
師団長が出るようになったのだ
陸大の教育年限は平時
3年だが、昭和10年以降は
2年半、1年半と短縮され、
最後の陸大60期は昭和20年
2月に入校して、同年8月
卒業のわずか半年の教育だった
のだ
入校人員もその前の59期
から199人と大幅に増加
したのだ。
陸大には正規課程とは
別に専攻科と専科が
あったのだ
専攻科というのは、陸大の
大学院とも言うべき存在で、
大正12年から昭和7年まで、
陸大OBの佐官から毎年10人が
入校して、
1年間高等用兵、すなわち
師団、軍などの戦略単位の
運用の研究を行なったのだ
これは山科、宇垣軍縮に
よってポストが減少した
ことで可能になったもの
なのだ
昭和6年に満州事変
が起こり、昭和7年に
第一次上海事変が起こって、
部隊が増加したため廃止
されたのだ。
専科というのは、専攻科とは
逆で、支那事変の勃発以降
参謀が足りなくなったことから、
これを補うために設けられた
制度なのだ
陸士卒業者で陸大に
入らなかった者、その
少佐や大尉の中から
優秀者数十人を選抜して
1年間速成教育して、
参謀要員の補充に充てたのだ。
いわば陸大の短大部の
ようなものでこの制度は
終戦の年の1年前まで
続いたのだ。
このほかの学校について
説明するのだ
陸軍航空士官学校は
昭和13年に現在の
埼玉県入間市に開校したのだ。
前年に支那事変が起こったから、
陸軍士官学校は定員の大幅
増員に伴い、それまで
本科と予科と2つに分かれて
いたものから、陸軍士官学校
と陸軍予科士官学校の2つの
学校に分離したのだ。
陸軍士官学校は神奈川県
の座間に移転したのだ。
予科はそれまでと同じ
市ヶ谷にあったけれど、
後に現在の埼玉県朝霞市に
移転するのだ
そして、陸士予科、
あるいは予科士官学校を
卒業し、希望と適性に
よって航空要員とされた
ものが陸軍航空士官学校に
入校したのだ。
操縦、整備に分かれて
教育を受けたのだ
それまでは陸士を卒業
してから航空要員教育を
したけれど、それでは
時間が足りないというか、
間に合わないということで、
航空士官学校を設立し
在校中から教育をする
ことができるように
なったのだ
効率化が進んだという
ことが言えるかもしれ
ないのだ
兵科将校になった後、
自身の兵科に関する教育を
一定期間受ける学校があり
それが各種兵科学校なのだ
歩兵学校、騎兵学校、
砲工学校、戦車学校、
自動車学校、輜重(しちょう)
兵学校などがあったのだ
性格は少し異なるが、
憲兵練習所という所があった
のだ
名前が練習という
ところが面白いのだが、
憲兵練習所という所が
あったのだ
陸士出身者はもちろん
幹部候補生出身者、
一部には下士官も対象と
なって教育を受けることが
できたのだ。
特殊な学校といえば、
戸山学校と中野学校が
挙げられるのだ
戸山学校は昭和初年に
東京の戸山に開校したから
この名前があるのだ
剣術、射撃、体操、戦術、
ラッパ、音楽、こういう
ものを教授するのが目的
だったのだ
戦術は後に陸軍歩兵学校に
移されたけれど、以後終戦
までは陸軍の剣術、射撃、
音楽の殿堂として存在したのだ。
特に有名なのは陸軍戸山
学校軍楽隊で、吹奏楽団
としては当時日本一の
レベルであったと言われて
いるのだ
同隊は部隊や軍の学校など、
多くの軍歌を作曲したこと
でも知られているのだ
中野学校は、名前を聞いた
ことがあると思うが、
スパイの養成所として有名
なようだが、実態は少し
異なるのだ
支那事変が始まった翌年、
昭和13年に東京の九段に
後方勤務要員養成所として
開校したのだが、
翌年中野に移転し
スパイというよりも、
諜報(ちょうほう)要員を
養成する機関だったのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる