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研究すべきじゃ

どうも村田です

イコール・

天照大御神

(あまてらすおおみかみ)

とは言えないけれど、

年代、時代的に、

ちょうど弥生時代が

終わりを告げたという

ことなのだ。

そして、古墳時代に

入ったのがちょうど

紀元200年ごろで、

卑弥呼の魏への

遣使が239年なのだ。

しかし、卑弥呼は

もう少し前から位に

就いていたと思うから、

200年ごろには即位

していたのではないか

と思うのだ。

そうすると、神武天皇が

250年、それから1代

さかのぼると、

天照大御神

(あまてらすおおみかみ)

まで5代しかないのだ。

5代掛ける10年は、

50年しかないのだ。

「神武天皇が

250年とします」

と単純に言ってしまうと、

200年ということに

なってしまうのだ。

それから、ちょうど

古墳時代に入る時でもあり、

稲作なんかは当然のこと

ながら

北九州だが、ほとんど

同時期に稲作水田の

耕作が始まるのが大和・

河内なのだ。

そして、弥生時代が

終わるのを知らせるかの

ように、

前方後円墳の少し前で、

前期前方後円墳と言った

のが、

纏向(まきむく)遺跡の

ちょうど南側に、上から

見ると点々と

オタマジャクシのような、

前期の前方後円墳が

始まるのだ。

そのころが高天原

(たかまがはら)の

始まったころではないか

というふうに思うのだ。

だから、ちょうどそれが

『後漢書』に書いてある

わけなのだ。

「大倭王の帥升(すいしょう)」

という人が後漢に朝貢に

出かけて107年、

そして住まうこと70~80年に

して倭国が乱れる」という

記述が、

『後漢書』と『魏志倭人伝』

にダブって出てくるのだ。

ちょうどその帥升(すいしょう)

が大倭王という名前で行ったのは、

多分唐子・鍵という遺跡があるが、

ちょうど纏向(まきむく)

の少し横の方に、大して

離れていない所にあるのだ。

これが日本最大の環濠

(かんごう)遺跡で、

2番目が池上曽根という

河内の遺跡で、それから

3番目が吉野ヶ里なのだが、

いずれもほとんど弥生時代

の初期から古墳時代に入る

寸前まで続いていたのだ。

だから、

「ちょうど帥升(すいしょう)

の政権が107年、それから

70~80年住まうこと、倭国が

乱れて」というのは、

そうするとずばり200年と

あまり差がなくなってきた

のだ。

それで、卑弥呼が共立

されたということなのだ。

ただ、シャーマニズムで

巫女(みこ)をやっていた

人が、女王になって

いきなりできるはずが

ないから、やはり名のある

王族だか貴族だった家系に

生まれた、

やはり風格がある女性

ではなかったかという

ふうに思っているわけなのだ。

ちょうど『後漢書』に

出てくる帥升(すいしょう)

の政権が末期になって乱れて、

それで共立された

というのがすぐ出てくる

から、

そうすると卑弥呼は

ちょうど200年ごろ即位

して、247年に亡くなって

いるのだ。

そうすると、ずばり

当てはまってしまう

のではないかと思って

いるわけなのだ。

『日本書紀』の編さん

というのが、681年に

天武天皇が命じて

スタートした

わけだが、ここで

編集者たちは1人では

なくて、

数十人単位で編さん

されたというのも

最近分かってきたのだ。

鏑木先生は、

「大体10グループに

分かれて『日本書紀』を

編さんしたのではないか」

と言われているが、

それは文章が代によって

違っているとか、

いろいろ区別をすると

10グループに分かれて

編さんされたのでは

ないかということなのだ。

それから、今度は

最近の森博士によると、

「5グループに分かれて

編さんが始まったのでは

ないか」ということなのだ。

だから、

「『神代記』は誰。

上下は誰。それから

1代目から9代目は誰。

崇神天皇からこれは誰」

というふうに、大体

分かれているという

ことなのだ。

津田左右吉は、

「『日本書紀』は

7世紀後半に大和朝廷の

日本統治を正当化する

ために造作された」

ということを彼は言って

いるわけだが、それは

とんでもない話で、

1人で作られたわけ

ではないのだ。

『古事記』は、

たまたま太安万侶

(おおのやすまろ)

が編さんして、

稗田阿礼が語り部で

伝えてきたことを

改めて読み直して、

それを編さんしたのが

『古事記』なのだ。

ほとんど太安万侶

(おおのやすまろ)

と稗田阿礼の2人の

名前しか出てこない

のだが、

『日本書紀』は

国家的な事業だから、

1人や2人ではなくて

数十人が関わっている

のではないかという

ことなのだ。

それも学者の人たちは

さらに研究してもらいたい

なというふうに思うのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいうにしといたる

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