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文学をつくるんじゃ

どうも村田です

東京に来た瞬間に

国民と言われるのだ

しかも言われるのは

個人で、その個人

こそが、

しかしながら

こう吹き込まれる

わけなのだ。

「おまえさんたちが

これから臣民平等の

世界の中で文明開化を

して、

殖産興業して、

富国強兵をする、

そのナショナリズム

の基盤になるんだよ。

だから頑張れよ」

と言われるわけなのだ。

そして能力主義で

能力を発揮しろと、

能力を発揮した瞬間

彼らはその能力を

誰に使うかというと、

そう、

近代国家建設に

向けた意欲として

能力を発揮しろと

言われるのだ。

そして近代国家建設

に向けた意欲を発揮

すると天皇から、

あるいは近代国家から、

あるいは国体から

承認されるのだ。

「そう、おまえは

いい子だ、おまえは

近代的な国民だな」

と言って承認される

のだ。

この循環が生きられた

のが、おそらく

明治20年代までなのだ。

なぜかというと、

国民自体が少なかった

からなのだ。

ゲマインシャフト

から出て国家を担おう

なんていう人がまず

少ないので、

それは来てくれる人が

優秀であればありがたい

わけなのだ。

みんなに位置取りを、

みんなに役割を、

みんなにお給料を

払えるわけなのだ。

けれど、近代国家の

基盤が整ってくると、

全部役割は埋まって

くるのだ。

つまり、官僚だって

別に全員が全員を

雇うわけではない

のだから、

全部埋まっていく

わけなのだ。

そうするとどうなるか、

つまり、この個人に

さえなれない、

あるいはその個人、

国民としての役割を

担うこと自体が

ストレスになって

くる人間たちが、

その外にこぼれ落ちる

わけなのだ。

これが近代文学を

作るのだ。

明治だった場合、

そこからこぼれ落ちた

のが内村鑑三なのだ。

つまり、キリスト教を

もって任じるが故に、

近代国民国家の中に

居場所を見つけられ

なかったのだ。

圧倒的な信仰心を持つと、

それこそ危ないのだ

という形で批判された

のが内村鑑三なのだ。

そして、内村鑑三の

弟子に近代文学者が

続々と出てくるわけ

なのだ。

志賀直哉、有島武郎、

正宗白鳥、あるいは

それ以外のいろんな

文学者が出ているのだ。

北村透谷も同じ

本当は彼は自由民権

運動をやろうとした

のだけれど、

その自由民権運動の

中での位置取り持てない、

つまり国民になれない

のだ。

そうするとそこから

こぼれ落ちてキリスト教

に行く、

そこでロマン主義者

になる、そして彼は

26歳か27歳辺りで

自殺するのだ。

つまり位置取りが

ないのだ。

この自殺の系譜は

つまり、北村透谷の

自殺が後の芥川、

そして後の太宰、

そして後の三島を

予言することになる

わけなのだ。

その最初が

この北村透谷だと

言っていいだろう。

そして漱石もそうで

漱石というとお札に

なっているから

すごいなということに

なりそうだけれど、

しかしご存知のように、

漱石は何をしたか

東京帝国大学の講師職

を全部投げ打ったのだ。

そして一文筆家に、

つまり在野に降りた

のだ。

そのぐらい

近代システムから

降りた人間なのだ。

降りたところで

ようやく新聞の連載小説

としていろいろ書き

始めたのが漱石なのだ。

そして漱石の一番弟子

は誰かというと、

もちろん芥川龍之介なのだ。

こういう形で、実は

この近代国民国家から

外れてしまった人間

たちが文学を作るわけ

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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