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そう教えられたんじゃ

どうも村田です

中野学校は、技術よりも

人間教育を重視したのだ。

教育の最重視事項・核心は、

「謀略は誠 なり」

という精神であったのだ。

この「謀略は誠なり」

という精神は、日本の民族性が

為せる業だと思っているのだ。

これを他の国・民族に説明しても

ピンと来ないのではないだろうか。

諜報や謀略は、国民性や民族性が

大きな力になると確信しているのだ。

アメリカのCI A、イスラエルの

モサド、イギリスのMI6、

旧ソ連のKGBなどの教育内容

(教育目標 や方針を含む)については、

当然のことながら

トップシークレットであるが、

例えば、アメリカのCIAの教育を

そのまま日本に持ち込んでも、

うまく機能しないのではないだろうか。

各国の国民性に根ざした

諜報の手法があり、それを

活かした教育こそが諜報要員の

教育には必要ではないか、

考えるのだ。

日本の場合、中野学校の

「謀略は誠なり」

という精神は、まさに日本の

国民性を反映し たものであり、

今後の日本の諜報・防諜体制の

強化において大いに参考に

すべきものであるのだ。

ちなみに、中野学校の

「謀略は誠なり」

について、牟田照雄先生

(陸軍中野学校第三期 乙種学生)は、

『陸軍中野学校の思い出と

日本の今後取るべき秘密戦体制』

という タイトルの貴重なご寄稿の

中で次のように述べられているのだ。

〈五一五事件の被告・

吉原正巳教官が東大の

平泉澄教授に弟子入りし

皇国史観を学んだ後、

中野学校に招かれて国体学を担当し、

楠公社を建立して学生は毎朝参拝。

南北朝史、神皇 正統記、講孟箚記

(こうもうさっき)

(吉田松陰が野山獄中で囚人に

教えたもの)、水戸学などを学び、

特に忠君愛国のモデルとして

「楠公精神」を学んだ他、

学生が任務遂行上守るべき信条

として

又同志的団結強化のため

「誠」の心を鍛錬。

「条理極まる所これ誠なり」

といい、軍人勅諭五力条の精神

(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)

は誠で締めくくられていた〉

「謀略は誠なり」

とは真逆に、孫子は

「兵は詭道なり」と訓えているのだ。

これは諜報にも適用される

考え方であろうと思うのだ。

このように、

「スパイは人を欺くものではないか?」

と思われるむきもあろうが、

日露戦争における明石工作の

成功例や日本が本格的に立ち上げた

諜報要員の養成機関である

陸軍中野学校の教育方針で

育成された中野卒業生たちの

活躍を閲すれば、

今後設立される日本の

中央情報機関(JCIA)などにおいて、

「謀略は誠なり」

という陸軍中野学校の精神を

継承することは適切でかつ必然

ではないだろうか。

韓国で防衛駐在官をしていたとき、

「情報を取る」「謀略を行う」

「人を裏切る」

という行為・体験は、とても

後ろめたいものだと思ったのだ。

非常に嫌な思いを感じたもの

であるのだ。

そんなときに、ある言葉を

思い出したのだ。

それは、

「日本と朝鮮とは、一本の

根から出た二つの枝だ」

という言葉だったのだ。

この言葉は、陸上自衛隊の

小平学校で韓国語を教えてくれた

崔淑嬪【チェ・スクピン】先生

(仮名、ご令息を大韓航空機事件

で亡くされていた)

だった。

先生は、韓国人として、

日本の自衛官に韓国語を教えるに際し、

悩まれたに違いないのだ。

悩みぬいた末にこの言葉に

辿り着いたのではないだろうか。

この言葉に沿うように努めたのだ

なぜなら、そのほうが楽だからなのだ。

後ろめたい気持ちを抱えず、

「これは日韓両国のためなのだ」

と、誠心誠意思うようにしたのだ。

こう考えると、後ろめたい思いが

制御され、相手の韓国人にも心が

通じるような気がしたのだ。

最初から

「(対面する)この人を欺いているのだ」

という気持ちではなく、

「この人と日韓の協力・発展の

ために働いているのだ」

と自分に言い聞かせるようにしたのだ。

今にして思えば、これこそが、

「謀略は誠なり」

の実践工夫例だったのだと思うのだ。


明石元二郎大佐が諜報工作を終えて

帰国したあと、『落花流水』という

報告書を書いて

参謀本部に提出した。

明石はこの報告書の中などで

「謀略は『誠』なり」

と明言しているわけではないのだ。

だが、明石工作の足跡を辿れば、

自ずと「謀略は『誠』なり」を

地で行っていたことが納得できるのだ。

明石の心の中に

「ロシアのツァー(皇帝)に対抗

する不平党諸派は、俺の本当の同志だ。

彼らと一分の精神的な齟齬はない。

命懸けで一緒にやるんだ」

という精神(心)がなければ、

彼等から信用してもらうこと

などできない。

明石大佐の「誠」は彼ら

不平党諸派の心 に届き、彼らの

「誠」も明石大佐に通じたのだ。

だからこそ、ロシア転覆という

奇跡的な工作をたった一人で

成し遂げることができたのだ。

岩畔中佐、秋草中佐、福本中佐などは、

この報告書の中から「謀略は誠なり」

という、中野学校の精神を見出した

のだ。

中野学校教育の第二の特徴は、

「個人の地位や名誉、そして

命もいらない、国のためであれば

『埋め草』になれるであったのだ。

この精神も室町時代から江戸時代に

かけて忍者や草の者と呼ばれた

諜報要員たちの精神を受け継いだ

ものではないだろうか。

この精神は一面でともすれば

「情報軽視」に通じる要素が

あるのではないだろうか。

「埋め草」という言葉に因んで、

参謀本部は、中野学校卒業者の中から

「従来の駐在武官(3年ほどで交代)

とは異なり、

永続的に(終生)外国に駐在する

(骨を埋める)海外 駐在武官になる

要員を育成すること」

を意図していたとも言われるのだ。

イギリス軍の場合、秘密諜報員は

家族ぐるみで外国に移り住み、

二代、三代とその国に常駐する

システムがあるというのだ。

それには実例があり

ある英国諜報員は、日本に来て、

代々洋服屋を営みながら、その裏で

一生を通じ、更には子孫に

受け継がせて、

対日諜報に従事していた

というのだ。

そのことが明るみに出たのは、

大東亜戦争が終わった後のこと

であるのだ。

その英国人の洋服屋の二代目は、

大東亜戦争後には駐日大使に

なったというのだ。

現在の日本では、防衛駐在官や

外交官は定期的・頻繁に交代するのだ。

特にキャリア外交官 は、あらゆる国に

精通するジェネラリストを養成する

ためなのか、世界中を回るのだ。

そのため、一つの国に深い交友関係

(ヒューマンネットワーク)=情報源を

築けないのだ。

重要な情報を得るためには、長い

時間をかけてその土地にしっかりと

根を下ろさなければならないのだ。

最初に赴任してから文字通り骨を

埋めるまでその任国勤務を貫き通すのだ。

中野学校は、

「替わらざる武官として外地に

土着し、骨を埋めること」

という指針を打ち出していたのだ。

これは、現在の日本でも見習う

べき点ではないだろうか。

中野学校教育の第三の特徴は、

「民族解放の戦士」

を育成することだったのだ。

つまり、大航海時代以降、

ヨーロッパの白人から不条理極まる

やり方で占領・植民地化され、

苦しめられているアジアの友邦を

その桎梏から解放することが、

諜報・謀略の目的に掲げられたのだ。

この目的は、南方作戦の大義・

聖戦の旗印にもなるものだったのだ。

厳しい訓練に耐え、命を犠牲にする

任務を実行するためには、

夢とロマンがなくてはいけないのだ。

諜報・工作を活用して、

日本が黄色人種の仲間を

植民地支配の桎梏から救うため

聖なる戦いに勝利するという

目的・目標はまさに大東亜戦争の

大義名分となったのだ。

中野学校教育の第四の特徴は、

「万難を排して生き残り、

諜報任務を完遂せよ」

との訓えであったのだ。

この訓えは、

「生き残れ、絶対に死ぬな!」

ということなのだ。

この訓えは、「戦陣訓」の

「生きて虜囚【りょしゅう】の

辱【はずかしめ】を受けず」

とは真逆であるのだ。

中野学校の生徒たちは

「死ぬな、死なずに帰国して

しっかりと獲得した

インテリジェンスを報告して

己の責任を果たせ。

潔く死ぬことよりも、生き抜いて

責務を果たすことが先だ。

死ぬのは簡単だ。死んだら終わりだ」

と教えられたのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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