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結実しとんじゃ

どうも村田です

結局は農業を

始めることとなった

のだ。

橘家は資産家であり、

染物業を営む商家で

あったのだ。

実際には商業と

手工業の両面を

もち合わせ、

さらに広大な土地

と農地を所有し、

小作人も抱えていた

と考えられるのだ。

橘家においても

農業をおこなっており、

染物業は農閑期である

秋から春にかけて

繁忙を極めたのだ。

当時の日本は圧倒的

に農業国であり、

染物業の主要な

取引相手は農民や

その関係者であった

のだ。

そのため、農繁期

である春から秋に

かけては

染物業の仕事は

比較的少なかったのだ。

農繁期には

(農業従事者が

忙しくなるために)

注文が減り、

収穫後に再び、

染物業の仕事が忙しく

なるというパターン

だったのだ。

橘家では所有地を利用し、

染物に用いる材料や

食料を自家生産するなど、

農業はつまり副業的に

おこなっていたのだ。

橘孝三郎は東京生活に

失望して帰郷したのだ。

彼は都会を人間が

生きるべき場所ではない

と考え、

そこには地に足の着いた

生活がなく、虚妄的で

観念や金銭が先行する

だけの社会が広がって

いると批判したのだ。

着る物や食べ物を自ら

生産し消費するという、

人間としての本来的な

営みが都会では失われて

いると感じたのだ。

「これが人間の暮らしか」

と疑問を抱いた彼は、

水戸に帰郷して農業を

始めたのだ。

一族の兄弟らとともに

農場経営をおこない、

都会文明の虚飾に染まらぬ、

地に足の着いた生活を

志向したのだ。

しかし彼の青年期にあたる

1910年代から1920年代の

日本社会は、

すでに都会化と

近代化の流れのなかに

あったのだ。

1910年代から1920年代

にかけて、日本は

第一次世界大戦を契機に

軽工業中心の国から

重化学工業へと発展し、

貿易の成功により

産業化が加速したのだ。

その結果、都市部では

工場労働者や

サラリーマンが増加し、

地方から都市への

人口流入が進んだのだ。

橘氏は、旧制高校時代

に経験した都市文明が

人間を幸福にするのか

疑問を抱き、

農業に従事して満足を

得ていたが、現実の

日本社会は

ますます地に足の

着かない方向へ拡大し、

目まぐるしく変化して

いったのだ。

橘氏は、農業に従事して

満足するだけでは

現実の日本の変化に

対応できないと考え、

天下国家の行く末に

疑問をもち始めるのだ。

西洋近代文明に押し

流され、金儲けや

産業発展を至上とする

風潮は大きな誤りで

あるとしたのだ。

実際、都市の富は

農村から搾取された

ものであったのだ。

農民は地代や利子に

より利益を奪われ、

流通や企業を通じて

富が都会に吸い上げ

られるという不公平な

経済構造が存在して

いたのだ。

現代の米の価格問題

においても、都会の

人びとは米価が

上がったことにより

生活の困難を訴えるが、

もともと今の値段では

農民は生活できて

いなかったのだ。

価格上昇に対しては

農民が非難される

という理不尽な状況が

続いているのだ。

都市の論理が強く通り、

農民は苦境に立た

されているのだ。

当時の日本は農業国で

第一次産業従事者が

多数を占めるにも

かかわらず、

農民が豊かになれず、

富は都会に吸い上げ

られる構造が形成

されていたのだ。

橘氏はこの搾取的な

経済構造を実感し、

日本の国家体制の見直し

を主張したのだ。

橘氏は、西洋型の

産業・都市文明を

正しいと信じて

農民を苦しめ開き直る

都会人を批判したのだ。

日本の国家体制を根本

から改め、多くの国民が

幸せに暮らせる社会を

築くべきだと考えたのだ。

もし西洋文明が産業文明

の必然であるならば、

その文明自体が誤って

いるとし、

極端には戦争をも

辞さず西洋文明を

打倒すべきだ

という思想が、彼の

「愛国」と「革新」

の理念に結実している

のだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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