どうも村田です
イザナギの神は
穢れを清めるために
禊をしようと考え、
「筑紫の日向(ひむか)の
橘の小門(おど)の
アハギハラ」というところで、
禊をされるのだ。
すると、また次々と
さまざまな神々が
お生まれになるのだ。
特に尊い三柱の神が、
アマテラス大神、
ツキヨミの命、
スサノヲの命
その後、
アマテラス大神は
父イザナギの神に
命じられた仕事をするが、
スサノヲの命は亡き母を
慕って泣いてばかりで
仕事をしないのだ。
よくできた姉とできの悪い弟
という対比なのだ。
イザナギの神は、
スサノヲの命を天上界から
追放することにするのだ。
スサノヲの命は
「最後に姉のアマテラス
大神にお会いしたい」
と言って、乱暴な態度で
姉の世界に押しかけるのだ。
アマテラス大神は
「あの弟が私の国を
奪いに来たのでは」と思い、
完全武装して弟を迎えるのだ。
スサノヲの命は
「そんなつもりはない」
とおっしゃり、
二柱の神々は心の清らかさを
「子どもの産み比べ」で
証明しようとするのだ。
子どもの産み比べで勝った
のは、スサノヲの命。
しかし、スサノヲの命は
その勝利に驕って、乱暴を
はたらくのだ。
乱暴の結果、ついに死者
まで出てしまうと、最初は
弟をかばっていた
アマテラス大神もついに
堪忍袋の緒が切れ、
「天の岩屋戸」にこもって
しまわれるのだ。
太陽神のアマテラス大神が
「天の岩屋戸」にこもって
しまわれたので、
世の中は真っ暗になり、
天上界でも地上界でも
さまざまな災いが発生
するのだ。
「なんとかしなければ」
と考えた八百万の神々は
会議を開き、
綿密な作戦を立て、力を
合わせてその作戦を実行
したのだ。
その結果、アマテラス大神は
ようやく「天の岩屋戸」から
お出ましになり、世界に
再び光や暖かさが戻ったのだ。
スサノヲの命は、天上界を
追放になるのだ。
このときの態度はとても
いさぎよく、追放する
相手の姉に向かって
「平安(さき)くましませ」
(お幸せに)と祝福の言を
述べるのだ。
スサノヲの命は罪を背負って
さすらうのだ。
夜に宿を乞うても、すべての
神々に断られてしまうのだ。
それまではアマテラス大神の
弟ということでちやほや
していた神々も、
手のひらを返した
ような態度になるのだ。
『日本書紀』ではこれを
「辛苦(たしな)みつつ降る」
と表現しているのだ。
「辛苦」を「たしなみ」
と読ませるのは奥深いのだ。
「たしなみ」には
「窮地に立つ」という意味
の他に
「苦しさに耐えて、
一生懸命つとめる」
という意味もあるのだ。
わが民族にはさすらう神の
イメージがどこかに共有
されているのだ。
西行や芭蕉、さらには昭和の
「股旅もの」や
「フーテンの寅さん(男はつらいよ)」
などにも投影されているのだ。
追放されたスサノヲの命は、
やがて出雲国にたどり着くのだ。
そこで老夫婦と出会い、
「ヤマタノオロチという
怪物に娘を奪われてしまう」
と言われるのだ。
スサノヲの命は緻密な作戦を
立て、怪物を退治すると、
その怪物の死骸から不思議な
剣が出現するのだ。
これが
「クサナギの剣」。
今も名古屋の熱田神宮に
お祭りされているのだ。
スサノヲの命は戦いのあと、
「私の心はすがすがしい」
とおっしゃり、
助けたクシナダ姫を新妻
として迎えるのだ。
このとき
「八雲立つ 出雲八重垣
妻籠みに八重垣作る
その八重垣を」
とお詠みになったのだ。
これは、日本で詠まれた
最初の和歌とされているのだ。
スサノヲの命の話にも
「日本人の心のかたち」
が現れているのだ。
まず、スサノヲの命は、
自身の罪をいさぎよく
認めているのだ。
天上界を追放される際も、
恨み言や不平不満を言わず、
自分を追放する姉に向かって
「平安(さき)くましませ」
(お幸せに)と言っているのだ。
高い精神性が感じられるのだ。
さらに、スサノヲの命の話に
見られる「日本人の心のかたち」
として、
「子どもが大人になるため
にはどうすればいいか」
というものがあるのだ。
世のため、人のために、
リスクに満ちた戦いを経て
はじめて、自分に「誇り」を
もてるようになるのだ。
鈴木千春氏は大正生まれの
戦争体験者の方々は共通して
「日本人たる矜持」
をもっていると述べているのだ。
残念ながら、いまの戦後の
日本人とは異なるのだ。
だが「日本人たる矜持」
をもつ人が絶滅したとは
思わないのだ。
花の種は残っていて、いつか
必ず芽吹く時が来るはずなのだ。
子どもが大人になるためには
「誇り」をもつ体験が必要なのだ。
それが「通過儀礼」なのだ。
古代から昭和までは、
「男の子」を「男」にする
通過儀礼がさまざまなかたちで
社会に用意されていたが、
戦後はほとんどが消えて
しまうか、かたちだけのもの
になってしまったのだ。
いまは男性も女性も、
子どもが大人になれないまま、
年齢だけを重ねてしまっている
のだ。
国難の一つである
「少子化」が進む一因が
ここにもあるように思えるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる