Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

述べとんじゃ

どうも村田です

岩畔機関

岩畔機関とは陸軍中野学校

創設の主導者である

岩畔豪雄大佐が率いた

特務機関のことであるのだ。

インド国民軍を創設した

藤原岩一少佐のF機関は、

同軍が五万人規模にまで

膨れ上 がったため、

一九四二年四月、発展的に

解消し、その任務は

岩畔機関に引き継がれたのだ。

人員三十名程度だった

F機関に比べ岩畔機関は大所帯で、

機関員は最盛時五〇〇人規模

だったといわれ、

総務班・情報班・特務班・軍事班

・宣伝班・政治班の六班から構成

されていたのだ。

岩畔機関には、多数の中野出身者が

参加したほか、松前重義

(後の東海大学創設者)、

水野成夫

(日本の実業家。フジテレビジョンの

初代社長。元日本共産党員で赤旗の

初代編 集長)

などの民間人も加わったのだ。

岩畔が水野を起用した理由は、

彼の日本共産党員時代の

地下活動を高く評価したから

と言われるのだ。


岩畔機関はその組織力を活かして、

主にインド国民軍の組織作りと

指導・教育に加え自由インド仮政府

の樹立に向けた工作に注力したのだ。


工作はインド独立連盟議長の

ラース・ビハーリー・ボースと

彼の腹心のA・M・ナイル

(インド独立運動家、実業家)と

岩畔の三人の話し合いにより

進められたのだ。

ここで、ビハーリー・ボースに

ついて触れておくのだ。

ビハーリー・ボース、

一八八六年 に、西ベンガル州

ブルドワンで生まれたのだ。

チャンドラ・ボースとともに

インド独立活動を行った人

であるのだ。

ビハーリー・ボースは

一九一二年、イギリス高官の

暗殺未遂で当局から追われ、

日本に脱出したのだ。

その後、中国・清末・民国初期の

革命指導者の孫文からアジア

主義者の巨頭・ 頭山満を紹介され、

その縁で、内田良平、大川周明、

葛生能久、佃信夫らの

興亜陣営

(列強の植民地支配に抵抗し、アジア

諸民族の独立に手を貸そうとした

勢力グループ)

との交流を深めていったのだ。

当時、日本はイギリスと同盟関係

(日英同盟)にあったためイギリスは

ビハーリー・ボ ースの日本退去を

要求したのだ。

日本政府はビハーリー・ボースに

五日以内の退去を命じたのだ。

退去期限の夜、二人は頭山満

のところへ挨拶に行ったのだ。

二人の警官がボースに付いていた

が、頭山は二人の行方を眩ませた

うえ、新宿中村屋店主の

相馬愛蔵・黒光夫妻に依頼して、

匿ってもらうよう計らったのだ。

同店のインド・カリーが誕生

したのは、このような経緯から

なのだ。

その後ボースは、相馬夫妻の

娘(長女)・俊子と結婚する

ことになるのだ。

これでボースは「中村屋のボース」

と呼ばれるようになったのだ。

昭和一九四二年五月、タイの

バンコクでインド独立連盟が

設立され、

中村屋のビハーリー・ボースが

総裁となったのだ。

だが、ビハーリー・ボース率いる

インド独立連盟とモーハン・ シン

大尉のインド国民軍の間に軋轢が

深まっていたのだ。

インド国民軍司令官の

モーハン・シ ン大尉は

親イギリス的志向が強かったのだ。

イギリス領マラヤやシンガポール、

香港などで捕虜になった英印軍の

インド兵を中心に結成されていた

インド国民軍は、

インド独立連盟の 指揮下に入った

が、インド独立宣言の早期実現を

主張するインド国民軍司令官

モーハン・ シン大尉と、

時期尚早であると考えていた

日本軍、そして日本軍の意向を

受けたビハーリー・ボースとの

軋轢が強まっていたのだ。

モーハン・シン大尉は、軍内に

おいて自身に対する個人的利益を

優先させた上に、そもそも大尉

という下級士官にすぎなかった

こともあり、

五万人以上の規模となった

インド国民軍を統率することは

困難であったのだ。

そのため、軍内に大きな

混乱を招いたのだ。


そのため岩畔はインド国民軍を、

インド独立連盟議長の

ビハーリー・ボースの管轄下に

入れたのだ。

それに対して、

モーハン・シン大尉は猛反発し

ボースを「日本の操り人形」と

非難したのだ。

結果として、

モーハン・シン大尉は

インド国民軍司令官を罷免

されたのだ。

この様な混乱により心労を重ね

体調を崩したビハーリー・ボースは、

一九四三年七月四 日にシンガポール

におけるインド独立連盟総会において、

インド独立連盟総裁と

インド国 民軍の指揮権を、総会に

先立ち亡命先のドイツから

シンガポールへ来た

スバス・チャンドラ・ボースに

移譲し、自らはインド独立連盟の

名誉総裁となったのだ。

チャンドラ・ボース

(マハトマ・ガンディーや

ネルーなどと並んで敬われている

インド独立の英雄・志士)は、

ドイツに身を寄せていたが

ヒトラーはインドの独立には

冷淡であったのだ。

このような経緯で、日本軍は

ビハーリー・ボースの後継者として、

インド独立連盟とインド国民軍を

指導できる有力な人物を求める

ようになったのだ。

国内外に知られた独立運動家で

あったチャンドラ・ボース

(イギリスの追跡を逃れて

一九四一年にドイツに潜入)は

まさにうってつけの人物であり、

またチャンドラ・ボース自身も

大島浩駐独大使に強く日本行きを

働きかけていたのだ。

またビハーリー・ボースの

腹心のA・M・ナイルも

チャンドラ・ボースを後継者として

招聘することを岩畔に進言していた

のだ。

問題はチャンドラ・ボースを

いかにしてドイツから日本に

移動させるかであったのだ。

日独間の移動経路は、陸路・海路

・空路ともに戦争状態にあり、

チャンドラ・ボースを安全に

日本に移送するには困難が多かったのだ。

日独両政府がボースの移送のための

協議を行った結果、空路よりは

潜水艦での移動のほうが安全である

と結論付けたのだ。

一九四三年二月八日に、

チャンドラ・ボースと側近アディド

・ハサンの乗り込んだドイツ海軍の

UボートU一八〇はフランス大西洋岸

のブレストを出航し、

スエズ運河は使用できないため、

喜望峰を目指したのだ。

Uボートは、四月二六日に、

アフリカのマダガスカル島東南沖で

日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、

チャンドラ・ボースらは

日本潜水艦に移乗したのだ。


五月六日、潜水艦はスマトラ島

北端に位置し海軍特別根拠地隊の

あるサバン島のサバン港に入港した

のだ。

チャンドラ・ボースは現地で

休養を取った後に日本軍の航空機に

乗り換え、 五月一六日に東京に

到着したのだ。

実に三ヶ月もの困難な移動だった

のだ。

岩畔機関の成果は、このように、

F機関の任務を継承発展させ政治

(インド独立連盟)・

軍事(インド国民軍)態勢を抜本的に

改革・強化したことであろう。

岩畔機関はチャンドラ・ボースを

迎えるため、ボースと親交のあった

山本敏大佐に引き継がれ

一九四三年、光機関と改称されたのだ。

「光機関」の命名は岩畔であったのだ。

政戦略には一貫性が必要なのだ。

インド工作の業務を岩畔機関から

光機関に変換するのは頷けないのだ。

岩畔外しの背景には、岩畔と

折り合いの悪かった東条英機らの

策動があったといわれるのだ。

この人事は、インド独立連盟と

インド国民軍を目茶苦茶にした

という見方があるのだ。

このように、インド政戦略をめぐり、

日本サイドでも、主導権争いや

功績争いがあったようなのだ。

戦後、岩畔は、F機関の事績について

「藤原はみんな自分がやったように

書いて いるが、オーバーであり

『嘘の皮』。(中略)

インドの独立ということは

『F機関』がやったことではなく、

私と次の代の機関長

(注:光機関長の山本敏大佐)が

やったことだ」

と述べているのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

Follow Me