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語ったんじゃ

どうも村田です

残念ながら

日露戦争後、革命の

どさくさに紛れて

独立を果たしたわけ

なのだが、

ようやく

フィンランドが悲願の

独立を果たしたにも

かかわらず、

祖国に帰国したのだが

日本との関係を疎まれ、

祖国にいることが

できずにイギリスに

移り住むことになる

のだ。

神戸生まれの長男は

労働党の大立者として

イギリス政界で活躍

するのだが、

フィンランドという国は、

NATOにようやく入った

ぐらいなのだ。

半分はロシアと国境を

接しているから、

独立したとはいえ、

やはりロシアの影響力

はまだ残っていて、

西側よりもロシアと

通じた方がいいと

考える人も一定数いて、

当時はおそらく西側と

ロシアと半々ぐらい

いたのではないかな

と思うのだ。

そういった人たちに

とって、日本との

関係が強い

シリアスクさんは

主導権争いに敗れて、

ヘルシンキ、

フィンランドに留まる

ことがなかなか

できなかったのでは

ないかなと言われて

いるのだ。

最晩年はフィンランド

の老人ホームに戻られた

というような話もある

けれど、

イギリスのアーカイブで

見た限りでは、相当

長い年月、イギリスで

生活しているのだ。

戦後、元二郎さんの

お孫さんで、元紹

(もとつぐ)さん

という方がいらっしゃる

のだ。

この方は昭和天皇の

ご学友で、皇室にも

非常に明るい方なのだが、

この元紹(もとつぐ)さん

の自宅の居間には、

シリアスクさんから

元二郎に戦後贈呈された

絵画が今も飾られている

のだ。

明石家には国を愛する

思いというのが受け

継がれているのだと、

このように元紹(もとつぐ)

さんはお話しされているのだ。

シリアスクは有力な

明石工作の協力者だった

わけなのだ。

これはウィキペディアに

出ているけれど、

1893年から約2年半、

日清戦争当時の日本に滞在

して、

『桃太郎』

をスウェーデン語に翻訳

したり、

1896年には

『日本研究と素描』

というのを出版するなど、

親日家だったと

いうふうに言われて

いるのだ。

少しおさらいすると、

情報収集のみならず、

相手国内に手を突っ込んで、

政治体制の動揺を

引き出して戦争を優位に

導いていくという、

こういったかく乱工作は、

新たな心理戦によるもの

なのだ。

戦わずして心理戦で

相手をやっつけるという、

こういう心理戦が世界の

先駆けになったのだ。

こういうことが達成

できたのは、繰り返すが、

こういう革命独立志士

を引き付けた明石の

人間力だったと思うのだ。

そして、ロシア国内の

反ロシア運動を資金面で

多大に支援したのが、

レーニンらロシア革命へ

の火種を育てたのだ。

リシェビキも育てた

というようなことが

言えるのではないかな

思うのだ。

なぜそういうことが

言えるかだが、

元紹(もとつぐ)さん

から直接聞いた話なのだ。

明石工作を否定する

稲葉さんは、明石が

レーニンに会った事実も、

司馬遼太郎さんが

「日本の明石大佐には

本当に感謝している。

感謝状を出したいほど」と、

『坂の上の雲』

にレーニンとのことを

書いているのだが、

「こういった事実は

確認されていない」

というように彼の著作

の中で書かれているのだ。

けれど、元紹(もとつぐ)

さんが聞いたところに

よると、

伝聞で大変申し訳ない

のだがある知人が

高田馬場のレストランで、

ロシア系ユダヤ人と

知り合ったらしいのだ。

その時に日本に来た

ロシア系ユダヤ人が

「明石元二郎はよく

知っているぞ。なぜなら

私の祖先はロシアから

亡命して、

若い時にイスラエルに

行ったんだ。その時に

私の祖先はレーニンと

仲が良くて、

レーニンはよく

『ロシア革命は明石

という日本人のおかげ

だったんだ』

というように語っていた」

ということを問わず

語りに語ったらしいのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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