どうも村田です
明石工作を整理
したいと思うのだ。
主に4つに分かれる
と思うのだ。
前人未到の明石工作
は4つあったのだ。
まず1番目は破壊活動
なのだ。
これは失敗に終わった
けれど、極東に派兵する
兵士を妨害するために
シベリア鉄道の爆破も
試みているのだ。
残念ながら、これは
爆破までには至らず、
鉄道ごと爆破してしまおう、
こういった壮大な計画を
立てて実行に移そうとした
のだ。
もちろん、明石は全く
手を染めていないけれど、
このエスエルたちの
反体制派が考えていて、
それに資金援助なりを
して関与していた
ということなのだ。
内務大臣のプレーヴェの
暗殺の背景にも関与が
あったのだ。
それから2番目に
反乱のほう助なのだ。
デモやストライキ、
サボタージュなのだ。
むしろここが一番
大きかったのではないか
というように解釈して
いるのだ。
その典型的なのが、
ガポン神父が指揮した、
「血の日曜日事件」
なのだ。
それから
「戦艦ポチョムキン号事件」
というのがあり、これは
映画にもなったのだが、
このポチョムキン号の
反乱も、どうやら明石の
関与があったのでは
ないかと言われてるのだ。
それから、3番目に
心理戦なのだ。
兵士に厭戦気分を
広げさせて脱走させるのだ。
「松山」という言葉があり、
松山の収容所は非常に
捕虜の扱いが優しかった
ということで、
満州のポーランド兵は
戦わずに「松山」
といって投降してきた
という話はあるのだが、
それはもともと言えば
明石が仕掛けたと
言われているのだ。
3番目の心理戦、そして
4番目に、これは最も
重要な政治戦争、
ひいては中枢の政治を
動かしていくという、
反帝政派を掲げる
ロシア国内外の政党や
団体を糾合して独立
反体制運動をあおって、
その結果において
ロシアの政治体制を
転覆させようとしたと、
こういうようなことが
言えるかなと思うのだ。
では成功の背後には
何があったのか
ということを分析した
のだが、
正直、日露戦争とは
当時の日本にとって
必ず勝てる自信は
なかったと思うのだ。
むしろやっても
負けるのではないかと、
しかし、戦わざるを
得なかったのだ。
日本が独立を守って
いくうえでは、小国
といえ、
日本が自分たちの権益、
独立を守っていくため
には戦うしかなかったと、
そういう中で、
明治維新ならではの
満腔(まんこう)の気概、
「やるぞ。日本を守る」
という、そういう心意気
があったということなのだ。
新生明治日本の行く末を
ひたむきに思う心、
そして国際社会で
サバイバルするという
愛国心、
さらに、
「いかなる手段を
使っても勝利するのだ、
ロシアの人たちの心を、
政情不安にしても植民地
にならないのだ、
日本国は独立を保つのだ」
と、そういう合理主義と
いうか、
そういうものがあった
のではないのかなと思うのだ。
そういうことは、
諜報員、スパイとも
言われるけれど、
インテリジェンス
オフィサーとしては
大変優秀だったと
言えると思うのだ。
しかし、それ以上に、
人間的な魅力が多分に
あふれている人だった
のではないかなという
ように思うのだ。
人間力がある、そして、
ドライではない、
ウエットな情に厚い人柄
だったのではないかと
思うのだ。
だからこそ、革命の
志士から信頼を得る
ことができたのだと
思うのだ。
『坂の上の雲』
を描いた司馬遼太郎さんも、
「明石は、革命の志士
から信頼を得る非常に
情に厚い人柄だった。
そこが彼がこの工作を
成功させた要因の1つ
だったのではないか」
というように言ってるのだ。
とりわけ、ロシアに
侵略を受けて、植民地
というか、属国というか、
帝政ロシアの一部と
されていたフィンランドの、
フィンランド
過激反抗党の党首、
コンニ・シリアスクとの
深い信頼関係があった
というふうに言われて
いるのだ。
そのシリアスクとの
関係が、革命志士に
輪が広がっていって、
ひいてはかく乱工作の
成功に導いたということ
なのだ。
司馬遼太郎さんは
『坂の上の雲』で、
「シリアスクとの関係
は肩を抱き合うほどの
仲だった」
こういうふうに書いて
いるのだ。
シリアスクさんは非常に
面白い人で、神戸に住んで
いたこともあり、
後にイギリスの労働党の
政治家になる息子さんは
神戸生まれだそうなのだ。
そういうことで日本には
大変親近感があったことも、
明石との仲につながった
と思うのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる