どうも村田です

「それを遥拝しろ。
はるかに拝みなさい。」
ということで結論が
出るわけなのだ。
これは両者の主張の
中を取った感じなのだ。
「天照大神
(あまてらすおおみかみ)
中心であることには
変わりはないけれども、
宮中三殿には神殿がある
ので、そこにすべての
神様が祭られていると
解釈すれば、
もうそれでいいんじゃ
ないですか?」
という話になるわけなのだ。
そして、ここでも政府は
非常に新たな教訓を得る
わけなのだ。
なぜかというと、
「この時も明治14年」
と考えていただければ
分かるのだけれど、
「明治14年の政変」
があったわけなのだ。
明治10年代の後半から、
政府は
「国会をいつ開くか」とか
「自由民権運動に
どう対応するか」
ということで、
すごく頭を悩ませた時期で、
神社界が
「神殿でどの神様を祭る
べきかを決めてください」
というような議論を
持ち込んできた時とは、
10月に国会開設の詔
(みことのり)が出て、
それと同時に大隈重信を
追放するという状況の中で、
これまた明治政府が分裂
の危機に陥っている時に、
神社界が厄介事を
持ち込んでくると
いうことで、
「結局、神職に自由な布教
をさせておくと、神社界には
内紛が起こる可能性があって、
神々の権威が失墜しかねない」
ということで、翌年
明治15年1月に官国幣社、
つまり
「上級の神社の神主は、
もう布教はしないでください。
お葬式にも関わらないで
ください。お祭りだけして
ください」という形になるのだ。
そういう指令が出て、
その結果として、神社界を
お祭りだけに専念する
「神社神道」と、布教とか
お葬式もする「教派神道」
という2つに分かれていく
わけなのだ。
これも政府にとっては
非常に大きな教訓なのだ。
神社界についても、
「何か教義的なことに手を
出すと結局分裂し、かえって
国民がまとまらなくなって
しまう」
というような教訓を
得ることになるわけ
なのだ。
この大教院分離運動と、
祭神論争にある程度
関わっていた人が、
井上毅(こわし)
という人だが、実は
この人が実際には
帝国憲法も教育勅語も
書いたのだ。
帝国憲法を作った人と
いうと、みんなすぐに
「伊藤博文」と言うが、
伊藤博文はまとめ役で
あって、本当に革新的な
部分を書いているのは
この井上毅(こわし)
なのだ
教育勅語についても
そうでそもそも井上毅
(こわし)は
君主といえども、
国民の道徳的な、
思想信条の自由みたいな
ところに口を出すのは
反対だったのだ。
けれども、
井上毅(こわし)が
教育勅語を書く時、
当時の首相は山縣有朋だが、
どうしてもそういうものが
必要だという声が地方から
挙がってきたので、
作らざるを得なくなり
その時に「『敬神』や
『経典』『尊信』などと
いう言葉を使わない」
という条件を出していたのだ。
それはなぜかというと、
「それをやったらすぐに
宗教界の分裂に巻き込まれる」
とはっきり書いている
わけなのだ。
では、当時の言葉でいう
国体をどういうものとして、
「日本の天皇と国民の関係を
位置付けて、それを憲法や
教育勅語に反映させていくか?」
となった時に、
「『天皇は徳、国民は忠義』
という、この2つをお互いが
尽くし合ってきた中で、
日本は素晴らしい歴史が
生まれてきた」
と井上毅(こわし)
は考えたのだ。
「この考え方を憲法、
教育勅語の基礎にする」
というのが
井上毅(こわし)の
考え方だったのだ。
どうしてそんなことが
言えるのかというと、
それはもう憲法の
発布直後の最初や、
教育勅語にはっきりと
書いてわるわけなのだ。
例えば、憲法の発布の
直後には、
「惟フニ(おもうに)
我カ(わが)祖我カ
(わが)宗ハ我カ
(わが)
臣民祖先ノ協力輔翼ニ
(ほよくに)倚リ(より)
我カ(わが)
帝国ヲ肇造シ
(ちょうぞうし)
以テ(もって)
無窮ニ(むきょうに)
垂レタリ」
とあるのだ。
これは明治天皇から見て、
「私の先祖は臣民の
先祖と協力して、この
国を建国しました。
これはわが神聖なる
祖宗の威徳と、私の
先祖の徳が高かったこと、
並びに臣民の忠実憂虞
(ゆうぐ)にして国を愛し、
公に従い、この高貴ある
国史の成績を残した」
ということなのだ。
「天皇が徳、国民の
先祖が忠義を尽くした
ことによって
素晴らしい歴史が
生まれてきたのです。
これが日本の国柄です」
と言っているわけなのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

