どうも村田です

これまで、目次に
沿って読みながら、
その都度批判を
加えてきたのだ。
最後に、そこで
漏れている批判を
述べたいと思うのだ。
確認すると、本書
から伝わってくる
特攻隊員像は
「死そのものの賛美
以外には意味のない
死をせまる軍隊に
放りこまれて、
社会や家族の
しがらみのために、
そこから逃れること
ができず、
それでも生き続けたい
という悲痛な思いを
抱いていた若者たち」
あるいは
「その軍隊の思想に
染まってしまった
若者たち」
というものなのだ。
おそらく、ケスレー氏に
とっての最上位の価値は、
個人としての生命であり、
家族、地域、国家の
存続や繁栄は、それとは
全く比べものにならない
ものなのだろう。
ところが、当時の
日本の若者にとっては、
それらは自分の命に
代えても守りたいもの
だったのだ。
そこが、ケスレー氏と
当時の日本の若者たち
との決定的な違いなのだ。
この点に異論はない
と思うのだ。
それでは、当時の
若者たちは、戦争の意味、
当時の国際環境、戦況、
将来の見通しについて
どの程度の知識と認識
をもっていたのか。
それを確認して行くのだ。
まず、戦争の意味に
ついてで、戦争に意義は
「開戦の詔書」
で言われているように
日本の「自尊自衛」なのだ。
日米開戦後の
昭和17年1月から
毎月8日が
「大詔奉戴日
(たいしょうほうたいび)」
となり、
国民は毎月この日に
「大東亜戦争」
の意義を確認していたのだ。
この「大詔奉戴日」
の前身が昭和14年9月1日
から始った
「興亜奉公日
(こうあほうこうび)」で、
毎月1日に、
興亜、「アジアを興す」、
すなわち、欧米の支配から
アジアを解放し、
日本を中心とした秩序
を作ることが確認されて
いたのだ。
日米開戦とともに
「大東亜決戦の歌」
が作られ、盛んに
ラジオで流されたのだ。
歌詞はこうで
「立つやたちまち撃滅の
勝鬨あがる太平洋
東亜侵略一〇〇年の
野望をここに覆す
いま決戦のとき至る」
要するに、国民は
大東亜戦争の意義を
十分に理解していた
わけなのだ。
さらに、戦争相手の
アメリカについては
どうか。
渡部昇一著
『正義の時代』
に収められている
「愛憎の日米関係史」では、
「開戦の日は、
「これでスッキリしました」
とか、
「モヤモヤがとれました」
という有名人の発言が
新聞・雑誌の紙面を埋めた」
というのだ。
当時小学5年生だった
渡部氏自身も
「毎日、天にも昇る
ような気持ちであった。
それこそ雨が降ろうと、
雪が降ろうと、毎日毎日、
日本晴れのような気分
だったのは、
何も子供たちだけ
ではない。家では
父も姉も、学校では
先生も、
道路では隣近所の
小父さんたちも、
みんな
「これでスッキリした」
というような話ばかり
していた。」
と書いているのだ。
その理由を戦後の
日本人が知らないこと
に驚いて書いたのが、
この
「愛憎の日米関係史」
なのだ。
理由は、人種差別的に
日本の移民を絶対的に
禁止し、
危険な中国大陸に
移民が向かわざるを
得ないようにして
おきながら、
移民保護のための
軍事力行使を認めない
アメリカに対する
恨みなのだ。
まさに「鬼畜米英」
というのが国民一般の
感覚だったのだ。
当然、特攻隊員たち
もその感覚を共有して
いたのだ。
次に抜き差しならない
戦況の悪化なのだ。
これは昭和18年2月の
ガダルカナル島撤退以降、
同年7月のサイパン島の
玉砕、10月のレイテ沖
海戦、
19年3月10日の東京大空襲、
3月22日の硫黄島玉砕、
6月23日の沖縄守備隊の
玉砕。
前線であろうと、
銃後であろうと、
その危機は目の前の
現実だったのだ。
それでも、日本は戦闘を
やめられなかったのだ。
アメリカの
ルーズベルト大統領が
「無条件降伏」
方式で臨んでいたから
なのだ。
こんな酷い戦争は
もうやってられないと
思っても、
相手が条件を出すまで
戦い続けるしかないのだ。
大西中将はそのために
特攻作戦を考えたのだ。
隊員の中には、それを
明確に意識している
者もいたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

