どうも村田です

日本人は日本を
卑下していたのだ。
そこには学ぶべき
ものがないと思って、
背を向けたのだ。
そういうものだと
思っていただいても
いいし、私の世代で
いえばこうなのだ。
フーコー、ドゥルーズ、
デリダで
私もそうだったが、
私の教養、文学的な
教養は当時
「フーコーを学べ、
デリダを学べ、
ドゥルーズを学べ」
なのだ。
フーコー、ドゥルーズ、
デリダを学ぶことが
現代思想の最先端に
立つことでもあって、
この国家あるいはこの
社会を変えることだと
教えられてきたし、
そう思って背伸びをして
1回読んだのだ。
けれど、フーコー、
ドゥルーズ、デリダを
読むことは
自分の人生を支えるには
足りなかったのだ。
なぜかというと、
西洋の現実と日本の
現実は違うからなのだ。
そこにはっとした時に、
彼はもう中年を迎えて
いるわけなのだ。
つまり、もう戻れない
のだ。
その時に自分の孤独、
自分の個人主義の
無力に彼は突き当たって、
「ぼんやりとした不安」
という一言を残して
死んでいったのが
昭和2年なのだ。
しかし昭和2年というと、
昭和が始まって少し
経っていると思うかも
しれないが、
昭和元年は何と
1週間しかないのだ。
ということは、簡単に
言うと昭和2年はほぼ
昭和元年なのだ。
そこで芥川は死んで
いって、芥川の死が
新聞の一面を飾るのだ。
ここから昭和が始まる
のだ。何が見えているか
分かると思うが
つまり、私たちは西洋に
ならって追いつけ追い越せ
でやっていったが、
最終的に自分を支える
日本、自分を支える信仰、
自分を支える基盤を
見失っていった
ということなのだ
その時に不安という
言葉が昭和になって
ようやく出るのだ。
これが昭和を作るのだ。
昭和初期から昭和20年
までザーッと行くが、
いかに日本人が自己喪失
していたのかがさっと
分かるのだ。
まず、昭和2年に
芥川が死んだ後、
あの圧倒的に人気、
実力、教養ともに
一番のトップだった
男が死んだ瞬間、
昭和3年から7年まで、
マルクス主義が
大流行するのだ。
マルクス主義が戦前に
おいて抑圧された、
弾圧されたと教えられ
ているかもしれないが、
そんなことは一切ないのだ。
昭和5年辺りまでは、
マルクス主義論文は
普通の雑誌、
『中央公論』や
『文藝春秋』に
たくさん出ているのだ。
そういう意味でいうと、
別に抑圧などされて
いないのだ。
むしろ流行している
のだ。
そして、それこそ
まさに私はどうやって
生きればいいのだと
ふっと不安になった
男たちや女たちへの
「いや、あるよ、
社会を変えて共産社会
にすれば、おまえさん
たちの苦しみはなくなるよ」
という教えなのだ。
ジェネラルセオリー
と言ってもいいし、
ある種の一般理論と
言ってもいいけれど、
宗教なのだ。
だから、当時の
マルクス主義を
社会科学だと
思わない方がいいのだ。
当時のマルクス主義は
宗教の代替物なのだ。
マルクス主義さえ手に
したら、社会を見つめて、
社会を俯瞰(ふかん)して、
社会を変えられると
いった方向性なのだ。
だから青野末吉、宮本顕治、
蔵原惟人(これひと)、
それから小林多喜二、
もう詳しくは言わないが、
彼らが続々とマルクス
主義的な文学論を書いて
デビューしたころなのだ。
ただ、これから少し
雰囲気が変わるのだ。
そのちょっとした
雰囲気の変わりが
昭和6年なのだ。
昭和5年が
マルクス主義の絶頂だったら、
6年がある種の転換点の次
なのだ。
ここで何が起こるか
というと、満州事変が
勃発するのだ。
これだけではなく
イギリスにおける
金本位制が終わるのだ。
金本位制というのは
当時のグローバリズム
だと考えてもらいたい。
金を基準にして今だと
ドルだけれど、金を
基準にして
世界市場の中で物を
売り買いするということ
なのだ。
その売り買いが停止
されるということは
保護貿易なのだ。
つまり、
「うちのお金は、
金という世界標準に
しないからね」
と引きこもるのだ。
そして引きこもった
途端に私たちも満州事変
という、
国際連盟からは指弾
されるようなことを
普通にしだすのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる

