どうも村田です
漢字で入ってきたものを写して、
全部日本語で読んだのだ
訓点を打って読んで、そして
ひっくり返したりして読むのだ
ひっくり返して読むことを
転倒するというのだ
なぜなら、それは主語と
動詞が違うから、主語が
あってその次に動詞が来る
というスタイルではないから、
いちいち転倒しないと
読めるわけがないのだ
それを読んだのだ
そして、儒教も仏教も
理解しようとして、
理解したのだ。
理解しなかったから
「誤解した」と言われても
仕方がないけれど、理解
しようとしたのだ。
そのようなことをやっている
けれど、だんだんできなく
なって、日本人がもともと
持っていた文化に戻って
いくわけなのだ
だから、原点からの離反の
歴史が日本の歴史だとも
いえるのだ
漢字、仏教、儒教、律令、
4つ、何しろ文字そのものを
入れたということが劇的な
ことなのだ。
それで当然、一生懸命
中国人のように書こうと
努力しても、江戸時代に
なっても、やはり
韓国人、朝鮮人の方が漢字
漢文は優れていて、日本は
学ぶ立場だったのだ
漢字漢文の鞭撻な人は
朝鮮半島から渡来してくる
人に教えてもらうのだ
そしてまた、通信使という
のが江戸まで旅行で来て
すると、集まってきた
学者たちは自分の書いた
漢文を韓国人、朝鮮人に
直してもらったりしたのだ。
それぐらい日本は、十分には
中国を受け入れることが
できなかったのだろうと
思うのだ
しかし、歴史を考える
人たちはみな古代国家の
この大きな刻印、
しるしを文明の夜明けと
受け取っているのだ。
実はしかし、この日本列島の
古代の人たちは、必ずしも
歓喜の声をもってこの新文明を
迎え入れたのではなく、
そこに無言の抵抗、嫌悪、
反発、リアクションという
ものがあったのでもあるのだ。
だから、非常に長い期間、
文字の受け入れを拒否して
いるのだ。
これを文明の立ち遅れと
いうふうに言うのは、
軽薄な日本の歴史学者
なのだ
日本は原形に対する離反の
歴史を経過するとともに、
変形の歴史でもあるわけ
なのだ
平安、鎌倉、室町、戦国と
続くうちに4つの基本原理は、
4つというのは
漢字、仏教、儒教、律令
のことだが
この4つの基本原理は著しく
変質して、良く言えば日本化、
悪く言えば適宜利用、
あるいは未消化放棄、
あるいは輸出国とは似て
非なる深化変容を遂げたと、
いっぱいそういうことが
あるわけなのだ
だから江戸時代になって
急に新しくやろうとして、
自分の奥さんの葬儀を
そっくりそのまま
中国式にやらなければ
いけないと思ってやった
儒学者が、火葬で
日本は火葬だが
儒学が火葬を禁じている
から儒学と同じような
死の弔い方をしたら、
「キリシタンではないか」
と疑われて、土佐の藩士が
江戸に呼びつけられて、
そんな出来事もある
ぐらいだったのだ
キリシタンと疑われたら
大変だったのだ
「キリシタンではない、
シナの通りやったのだ」
というのだが、とにかく
お葬式の仕方が違うわけ
なのだ
大体、江戸時代を通じて
「中国は違う国だ」
ということに対して、
だんだん強い意識が出て
くるのだ
例えば喪に服するのは、
父親が死んだ場合には
3年間喪に服している、
食べ物の制限まである
わけなのだ
ガリガリに痩せなければ
いけないのだ
それが正しい喪の
過ごし方であったのだ
それで幕府はそれを否定して、
何か簡略化したのだ
そうではないと出勤して
くれないからなのだ
出勤もしなくなるわけで、
それでは困るというので、
日本は面白いのだ。
日本は便宜主義なのだ
そういうズレがいっぱい
出てくるのだが、
一番大きなズレは武士が
いないということなのだ
もう1つは、王が2人いる
ということなのだ
王が2人いるということ
だけは世界的にも理解
されなかったけど、
中国人には全く理解
できなかったのだ
皇帝への徹底的な絶対化
というのがあるからなのだ
それから父系制社会であって、
結婚して女性は自分の
生まれた家の名前を名乗る
ことができなかったのだ
今でもそうで
大家族に吸収される形式に
なるのだけれど、女性だけ
自分が嫁いだ家の名前を
名乗り続けなければ
いけなかったのだ
変な話で
大家族同士でも結婚
できないということなのだ
日本はこの慣習を受け入れ
なかったのだ。
日本は小家族に別れがちで、
昔から男女ともに家内同権の
構造を持つ社会で、
南の島々にあるパターンに
近い社会なので、
双系制社会と言われるのだ
双というのは2つで、
双系制社会と言われているのだ
それと家という観念が
違っていて、とにかく
血統を大事にするのが
中国なのだ。
だから家を断絶させるとか、
家を継ぐという観念がなくて、
日本の場合は他人でも家を継ぐ
ことができるのだが、
こういうのは中国では
考えることができないのだ
それは日本が軽々しいという
面もあるけれど、養子に入る
というのは大名の家族でも
やるのだ。
家を継ぐためには、養子に
入ったりするのを平気で
やるわけなのだ
幕府が許せば、家が継げる
わけなのだ
養子になって、知らない
他人が入ってきてもいいよ、
ということなのだ
それで下々の方では何が
起こるかというと、道端に
器量のいい娘を置いておいて、
売春ではないのだが
姿、形のいい男を見つけると、
呼び込んで、ごちそうをして、
もてなしをして、
そして
「いかがか。わが家で婿に
なってくれないか」
というようなことを平気で
やったのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる